劉龑
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高祖 劉龑 | |
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南漢 | |
初代皇帝 | |
王朝 | 南漢 |
在位期間 |
乾亨元年8月16日 - 大有15年4月24日 (917年9月5日 - 942年6月10日) |
都城 | 興王府 |
姓・諱 | 劉巌→劉龔→劉龑 |
諡号 | 天皇大帝 |
廟号 | 高祖 |
生年 | 龍紀元年(889年) |
没年 |
大有15年4月24日 (942年6月10日) |
父 | 劉知謙 |
母 | 段氏 |
后妃 | 馬皇后 |
陵墓 | 康陵 |
年号 |
乾亨 : 917年 - 925年 白龍 : 925年 - 928年 大有 : 928年 - 942年 |
劉 龑(りゅう げん)は、十国南漢の初代皇帝。廟号は高祖。「龑」は「龍」の下に「天」。もとの諱は巌。遠祖はアラブ系という説もある[1][2]。
生涯
[編集]唐の龍紀元年(889年)、劉知謙と側室の段氏との間の子として生まれた。劉知謙の正室の韋氏は嫉妬深く、段氏を殺害したが、段氏が生んだばかりの劉巌を養子に迎えた。
後梁の乾化元年(911年)に兄の劉隠が死去したため、その後を継いで南海王・静海軍節度使となった。917年(後梁の貞明3年)には国号を「大越」、元号を乾亨として皇帝に即位する。乾亨2年(918年)には国号を「漢」と改めた。
白龍2年(926年)には諱を巌から龑と改めた。「龑」の文字は自身が考えたもので「天駆ける龍」を表しており、則天文字を参考にしたと考えられている。
大有15年(942年)に崩御、享年54。後を三男の劉弘度が継いだ。
宗室
[編集]父母
[編集]兄弟
[編集]- 兄:劉隠(烈祖)、劉臺
后妃
[編集]男子
[編集]脚注
[編集]- ^ 藤田豊八「南漢劉氏の祖先につきて」『東洋学報 = The Toyo Gakuho 6(2)』、東洋文庫、1916年5月、247-257頁。
- ^ 陳寅恪 (1939年). “劉復愚遺文中年月及其不祀祖問題” (PDF). 歷史語言研究所集刊第八本第一分 (中央研究院歴史語言研究所). オリジナルの2022年2月23日時点におけるアーカイブ。 . "近年桑原騭藏教授《蒲壽庚事跡考》及藤田豐八教授《南漢劉氏祖先考》(見《東西交涉史之研究南海篇》),皆引朱彧《萍州可談》貳所載北宋元祐間廣州番坊劉姓人娶宗室女事,以證伊斯蘭教徒多姓劉者,其說誠是。但藤田氏以劉為伊斯蘭教徒習用名字之音譯,固不可信,而桑原氏以廣州通商回教徒之劉氏實南漢之賜姓,今若以復愚之例觀之,其說亦非是。鄙見劉與李俱漢唐兩朝之國姓,外國人之改華姓者,往往喜採用之,復愚及其它伊斯蘭教徒之多以劉為姓者,殆以此故歟? 關於復愚氏族疑非出自華夏一問題,尚可從其文章體制及論說主張諸方面推測,但以此類事證多不甚適切,故悉不置論,謹就其以劉為氏,而家世無九品之官,四海無強大之親,父子俱以儒學進仕至中書舍人禮部尚書,而不祭祀先祖,及籍貫紛歧,而俱賈胡(註:通商的胡人)僑寄之地三端,推證之如此。"
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