コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

劉聚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

劉 聚(りゅう しゅう、生年不詳 - 1474年)は、明代軍人本貫大名府清豊県

生涯

[編集]

太監劉永誠の甥にあたる。1425年洪熙元年)、都督僉事となった[1]1434年宣徳9年)、南京湖広のあいだの物資運搬を総督した[2]1441年正統6年)、定西伯蔣貴の下で右副総兵となり、麓川思任発の乱を討った。1442年(正統7年)、左都督となった[3]1448年(正統13年)、鄧茂七の反乱軍を建陽で破った[4]1449年(正統14年)、右都督となった。10月、罪に問われて免官された。11月、中軍署都督僉事となった[5]

1457年天順元年)、劉聚は奪門の変での功績により、金吾指揮同知から都指揮僉事に進み、さらに都督同知に抜擢された。1461年(天順5年)、曹欽が反乱を起こすと、劉聚は兵を率いてこれを討ち、右都督に進んだ。1466年成化2年)、副総兵となった[6]

1470年(成化6年)、劉聚は右副総兵として朱永に従って延綏に赴き、モンゴル軍を黄草梁に追撃した。伏兵に遇って激戦に陥り、下顎に傷を負ったが、麾下の奮戦により落命を免れた。ほどなく都督の范瑾らとともに青草溝でモンゴル軍を撃破した。朱永らは牛家寨に追撃し、劉聚は南山に拠って奮戦し、モンゴル軍を破って明領から出させた。12月、左都督に進んだ。1471年(成化7年)3月、寧晋伯に封じられた。

1472年(成化8年)11月、劉聚は趙輔に代わって平虜将軍となり、陝西諸鎮の兵を統率して延綏に駐屯した。1473年(成化9年)1月、モンゴル軍が花馬池に侵入すると、劉聚は副総兵の孫鉞や遊撃将軍の王璽らを率いてこれを迎撃した。高家堡まで軍を返したところ、モンゴル軍が再び来攻したので、劉聚はこれを破った。漫天嶺まで追撃し、伏兵により挟撃して、さらにこれを破った。孫鉞や王璽はまた別の敵を井油山で破った。6月、劉聚は固原での駐屯を命じられ、世券を与えられた[7]

その冬、北元バヤン・モンケ・ボルフ晋王およびマンドゥールン・ハーンベグ・アルスランらが兵を連ねて明領に深入りし、秦州安定会寧の諸州県にいたるまで、数千里にわたって横行した。モンゴル軍が撤退し、王越が紅塩池から帰還した時点で、劉聚は勝手に大勝利と奏聞し、成化帝に功労を嘉された。しばらくして兵部員外郎の張謹が劉聚と総兵官范瑾ら6将について功績を偽ったとして弾劾した。成化帝の命により給事中韓文が派遣されて調査すると、首級150の功績と報告されていたのが、実際には首級19の功績であった。成化帝はモンゴル軍がすでに撤退していたことから、不問に付した。1474年(成化10年)4月癸亥、劉聚は死去した。寧晋侯の位を追贈された。は威勇といった。

同年閏6月に子の劉禄が寧晋伯の爵位を嗣ぎ、翌年6月に劉禄の弟の劉福が爵位を嗣いだ[8]

脚注

[編集]
  1. ^ 談遷国榷』巻18
  2. ^ 『国榷』巻22
  3. ^ 『国榷』巻25
  4. ^ 『国榷』巻27
  5. ^ 『国榷』巻28
  6. ^ 『国榷』巻34
  7. ^ 『国榷』巻36
  8. ^ 明史』功臣世表三

参考文献

[編集]
  • 『明史』巻155 列伝第43