劉貞
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劉 貞(りゅう てい、生没年不詳)は、前漢の皇族。第6代皇帝景帝の孫で、中山靖王劉勝の庶子。三国時代の蜀漢の劉備の先祖にあたるという[1]。封号(爵位)は陸城侯[2]。
『三国志』蜀書先主伝によると、劉貞は紀元前117年に叔父の武帝から涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)の列侯に封じられた[3]。
紀元前113年に父の劉勝が逝去し、翌年の年始(正月)に、劉貞が参内した時に列侯に課された漢朝への上納金(酎金)が規定を満たさなかった廉(かど)で、侯の地位を召し上げられてしまった。劉貞はその後、封地であった涿郡に豪族として代々住居していたという[4][5]。
三国志演義での系譜
[編集]また、『三国志平話』および『三国志演義』では『三国志』同様に「陸城亭侯」とされ[6]、子の劉昂は沛侯、孫の劉禄は漳侯、曾孫の劉欒は沂水侯、玄孫の劉英は欽陽侯と、数代の間に爵禄の転封を繰り返し、劉弘の代までは官職を奉じ小豪族としての暮らし向きを保ち、劉弘が早くに亡くなり、その子劉備の代までには蓆や沓売りをする生活に落ちぶれていた。後に劉備が漢末期に活躍し、左将軍・宜城亭侯に封ぜられ、漢中王、蜀漢の皇帝になるに及び、劉貞の最盛期を凌ぐ隆盛を誇った記述になっている。これは一部を除いて、演義の創作である。
脚注
[編集]- ^ 『典略』(魏略)では、「劉備は臨邑侯(はじめは真定王劉楊の弟の劉譲の爵位であったが、劉譲は兄の劉楊とともに光武帝から謀反の疑いで誅殺された。後に光武帝の兄の斉武王劉縯の孫の劉復が封じられ、復位された)の分家である」と記されている。
- ^ 『漢書』王子侯表の表記。『三国志』蜀書・先主伝では陸城亭侯と記されている。
- ^ 盧弼の『三国志集解』で注を引く潘眉(清の史学者)の説によると、『漢書』「王子侯表」に基づいて、劉貞は紀元前127年に陸成侯に封じられ、紀元前112年に廃されたと記されている。同時に陸成侯の領土は冀州中山国陸成県にあり、「幽州涿郡涿県陸城亭」にあるとするのは誤り。前漢の時代には「亭侯」は存在しておらず、「亭侯」は後漢以来の爵位の制度であるとしている。その一方、周振鶴(中国の学者)『西漢諸侯王国封域変遷考(下)』第八章第10節では「劉貞が封建されたときは、陸成県は涿郡に属しており、成帝治世の綏和元年(紀元前8年)には中山国に属され、したがって「涿県」は「涿郡」の訛りと見られる」と述べている。
- ^ 裴松之は「臣(わたし)は考える。先主(劉備)は孝景皇帝(景帝)の血筋だとしても、はるか遠い世代で代々宗廟を祀るのは困難だった。すでに漢朝の継承者として、どの皇帝を始祖として親廟を建立したのか不詳である。同時に英知な人物が補佐し、学者(史官)が官職に就いていたのだから、(蜀漢の)宗廟の制度に関しては、(国の)掟があったのだろうが、記載が欠如し簡略だったのは、まことに残念である」と述べている。
- ^ 山田勝芳は宗室の資格を失った劉氏の末裔が属尽と称されて後漢後期に徭役の免除などの特権を受けていた事実を指摘し、劉備も劉貞の子孫として属尽の待遇を受けていた可能性を示している(山田勝芳『秦漢財政収入の研究』(汲古書院、1993年) ISBN 4-7629-2500-4 pp626-634.)。
- ^ 清の学者の毛綸・毛宗崗父子が校訂した『三国志演義』毛宗崗本(毛本)では「涿鹿亭侯」と記されている。