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加藤泰久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

加藤 泰久(かとう やすひさ、1855年2月12日安政元年12月26日[1][2][注 1]) - 1917年大正6年)8月11日[1][注 2])は、明治期の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将江戸出身。旧名・高塚義太郎[1]。位階勲等は正四位勲二等功三級。実弟の加藤定吉は、海軍大将男爵[3]

経歴

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幕臣・加藤泰吉の次男に生まれる[2]。養子となり高塚義太郎と名乗ったが加藤家に復帰した[3]沼津兵学校で資業生(第6期)として学び[4]1871年(明治4年)大阪兵学寮幼年舎に転学した[1][2]1875年(明治8年)12月、陸軍士官学校(旧2期)に入学[5]1879年(明治12年)2月、陸軍砲兵少尉に任官した[1][2][5][6]大阪砲兵工廠付を務め、1887年(明治20年)から1890年(明治23年)までフランスに留学した[1][2]日清戦争に臨時混成旅団兵站司令官・第1軍兵站司令官として出征した[3]

1895年(明治28年)8月、要塞砲兵第1連隊長に就任[7]1899年(明治32年)2月、砲兵大佐に昇進し砲兵会議審査官となる[7]大阪兵器本廠長を経て、1904年(明治37年)5月に攻城砲兵司令部徒歩砲兵第3連隊長に発令され日露戦争に出征[7][8]旅順攻囲戦などに参戦した[8]

1905年(明治38年)1月、陸軍少将に昇進し教育総監部[2][7][8]1906年(明治39年)4月には広島湾要塞司令官1907年(明治40年)、大阪砲兵工廠提理に就任[2][7][8]。陸軍学校の出では大迫尚道とともに最古参であった[2]

1910年(明治43年)11月、病気の為に休職し、1911年(明治44年)10月、予備役に編入された[2][7][8]1913年大正2年)4月1日、後備役となり[9]1917年(大正6年)4月1日に退役した[10]

死因は食道癌であった[2]

栄典

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位階
勲章等
外国勲章等佩用允許

著作

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訳書
  • ワンドウェルト著『応地戦術 第1巻』内外兵事新聞局、1884年。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』217頁では11月26日。
  2. ^ 『日本陸軍将官辞典』217頁、『大正過去帳』132頁では8月13日。

出典

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  1. ^ a b c d e f 『沼津兵学校の研究』602頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『大正過去帳』132頁。
  3. ^ a b c 『静岡県歴史人物事典』151頁。
  4. ^ 『沼津兵学校の研究』327頁。
  5. ^ a b 『市ヶ谷台に学んだ人々』3頁。
  6. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』52、56頁。
  7. ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』56頁。
  8. ^ a b c d e 『日本陸軍将官辞典』217頁。
  9. ^ 『官報』第201号、大正2年4月4日。
  10. ^ 『官報』第1401号、大正6年4月6日。
  11. ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
  12. ^ 『官報』第3717号「叙任及辞令」1895年11月16日。
  13. ^ 『官報』第4729号「叙任及辞令」1899年4月11日。
  14. ^ 『官報』第6279号「叙任及辞令」1904年6月7日。
  15. ^ 『官報』第3741号「叙任及辞令」1895年12月16日。
  16. ^ 『官報』第4027号「叙任及辞令」1896年11月30日。
  17. ^ 『官報』第5824号「叙任及辞令」1902年12月1日。
  18. ^ 『官報』第6727号「叙任及辞令」1905年12月1日。
  19. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  20. ^ 『官報』第5718号「叙任及辞令」1902年7月26日。

参考文献

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  • 読売新聞1917年8月13日朝刊5面「加藤少将逝く 加藤定吉海軍中将の令兄」。
  • 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
  • 静岡新聞社出版局編『静岡県歴史人物事典』静岡新聞社、1991年。
  • 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 桑原嶽『市ヶ谷台に学んだ人々』文京出版、2000年。
  • 樋口雄彦『沼津兵学校の研究』吉川弘文館、2007年。ISBN 978-4-642-03780-8