加藤重長
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加藤 重長(かとう しげなが、寛永4年〈1627年〉 - 寛文8年7月30日〈1668年9月6日〉)は、江戸時代前期の武士、旗本。通称は牛之助、助左衛門、勘助。大森好長の二男、大森三義。加藤重正の養子となった。母は加藤重正の娘。養子に茂雅(甲斐庄正親二男)がいる。徳川秀忠、徳川家光に仕えた。
生涯
[編集]加藤重長三義は、加藤家遺跡を継ぎ、書院番をつとめた。明暦2年(1656年)6月21日、母方の祖父加藤重正のために、大森氏墓所に、京都紫野大徳寺202世春沢宗晃禅師の撰文による「一便宗見大居士碑」長四尺六寸巾二尺角の四面塔を建立した。大森好長が開基といわれる崇巖寺(現在は廃寺)の跡地には、くだんの四面塔の他、大森好長夫妻、加藤重正夫妻、加藤重長夫妻の戒名を刻した宝篋印塔六基が残る。「大森氏、加藤氏の宝篋印塔[1]」として入間市の市指定文化財(史跡・昭和47年(1972年)10月20日)に指定されている。また、入間市景観50選[2]にも選ばれている。
脚注
[編集]- ^ “大森氏・加藤氏の宝篋(ほうきょう)印塔(いんとう)”. 入間市役所公式ホームページ. 2020年5月27日閲覧。
- ^ “38.大森氏、加藤氏の宝篋印塔”. 入間市役所公式ホームページ. 2020年5月27日閲覧。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜. 第5輯』、國民圖書、1923年、44頁。国立国会図書館デジタルコレクション。
- 『研究発表 福生山清巌院開基について』、福生町文化財調査会、立川愛雄、田村元昭、昭和43年5月7日