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加計勉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かけつとむ

加計勉
生誕 1923年3月27日
広島県賀茂郡三津町
(のち豊田郡安芸津町、現東広島市安芸津町)
死没 2008年4月30日
死因 心不全
出身校 広島文理科大学(現・広島大学文学部・教育学部理学部
職業 教育者実業家
活動期間 1955年 - 2008年
著名な実績 加計学園創立
活動拠点 岡山県広島県
肩書き 関連する学校法人の理事長・学長など
受賞 叙勲勲二等瑞宝章受章
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加計 勉(かけ つとむ[1]1923年大正12年〉3月27日[1] - 2008年平成20年〉4月30日[2])は、日本教育者であり実業家学校の設置者広島県出身。本人は実業の立場および現場教員への配慮から自らを教育者とする事をよしとせず「教育実業家」を名乗った[3]

概要

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加計学園グループの創始者[4][5]。同学園および関連学園の設立した各学校の初代理事長・初代学長・初代総長。学校法人加計学園および学校法人順正学園の名誉理事長、名誉総長。学校法人英数学館の名誉理事長。

設立した学校や学園の詳細は加計学園グループおよび各学校の項を参照。

来歴

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生い立ち

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1923年、広島県賀茂郡三津町(のち豊田郡安芸津町三津、現在の東広島市安芸津町)に10人きょうだいの末っ子として生まれる[2][4][6]。一族の出自が同県北部の山県郡加計町(現在の安芸太田町加計)であるが故に「加計」の苗字を持つとする説があるが[7]、地元安芸津町の歴史に詳しい古老は「加計家の源流が安芸太田町加計にあるという説については定かではない。近隣の水路工事や土地開発を行い、財をなして地主になったが戦後の農地改革で、所有していた土地のほとんどを手放した。」と述べている[4]

学生時代

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三津町立三津小学校[8]から広島県立忠海中学校を経て、広島高等師範学校(現在の広島大学教育学部)を1943年10月卒業。忠海中学の大先輩である池田勇人と付き合いがあったとされ[4]、この関係で後に宮澤喜一の後援会会長も務めた[4]兵庫県立姫路工業学校に教諭として赴任(9月より着任。師範学校卒業前1ヶ月・試用期間扱い)[2][4]

1944年9月、教育招集により陸軍へ。福岡県小倉市(現・北九州市)の戦闘機工場で生徒たちの引率責任者の任に就く[4]。生徒たちの待遇の改善を求め、時に軍側責任者との対立も起こしたと言われる[9]

終戦後、原子爆弾によって廃墟と化した広島の町を前に絶望するも、教育による日本の復興を誓う[10]1946年広島文理科大学理学科数学(現在の広島大学理学部)に入学。在学中に結婚。

教育実業家

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1949年卒業後、広島大学東雲分校中学校(現・広島大学附属東雲中学校)に教諭として赴任[4]1955年4月広島市小町(現在の同市中区)に予備校・広島英数学館を設立(現在の並木学院高等学校[4]、館長に就任。同校が加計学園グループのルーツ[5]。同校は大手予備校が広島に進出するまでは広島有数の予備校であったが[4]、大学受験生を奪われたため、後に通信制高校に転換した[4]

1961年、英数学館で得た運営のノウハウを活かして隣県の岡山県岡山市半田山の山麓(現在の岡山市北区理大町)に年来の夢であった学校法人「加計学園」を設立[4]、理事長に就任し学校経営に乗り出す[5]。学園及び、自身にとって最初の一条校となる岡山電機工業専門学校(現・岡山理科大学附属中学校・高等学校)を設置。「国公立や伝統私学の硬直した体制ではできない学問を行える場所を」という理念のもと、よりリベラルかつ真にアカデミックな(実用的かつ学際的にして時代の要請に応える)特徴を持つ「私学でしかできない」柔軟な私学運営を目指したとされる[11]。自らの座右の銘として「道」の一文字を掲げた。これは高村光太郎の詩『道程』の序節に由来すると言われ、自ら教育の道を切り開くとともに、子どもたちの行く道を造り、また自らの設した道を通った子どもたちが自身の道を切り開けるように、との思いから掲げていたとされる[12]

2008年5月3日、岡山理科大学御津国際交流会館で密葬が営まれ、安倍晋三塩崎恭久ら政財界の要人を含む約1400人が参列した[13][14]6月28日「お別れの会」が岡山理科大学加計記念体育館・九州保健福祉大学千葉科学大学の3会場で同時開催され、合計3500人が参加した[13]

1970年代後半から各国の高等学術機関との交流に努め、ライト州立大学フィンドレー大学シェナンドー大学パラナカトリカ大学ポルトガル語版英語版パラナ連邦大学サンダーランド大学から名誉学位を授与されている[13]

略歴

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人物

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経歴と歴史の不一致

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加計勉は戦時中、福岡県旧小倉市の航空機工場に勤務したことになっているが、当時の旧小倉市の曽根町にあった曽根飛行場に戦闘機工場や航空機工場の併設は無く、曽根町には学徒も動員され、満州(満州第七三一部隊)に送る毒ガス弾を製造した[18]曽根毒ガス工場(東京第二陸軍造兵廠 曽根製造所)があった[19]

人柄

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住所は岡山市津島福居2丁目[1]

家族・親族

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娘(第一子)は順正学園・ゆうき学園、現理事長の加計美也子。息子(第二子)は加計学園・英数学館、現理事長の加計孝太郎

脚注

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  1. ^ a b c 『中国年鑑 昭和60年版 別冊』人名録か191頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年12月31日閲覧。
  2. ^ a b c 創立者 加計勉 - 学校法人順正学園 - 吉備国際大学短期大学部
  3. ^ 鶴蒔、2011年。p.215
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 現代ビジネス編集部 (2017年7月17日). “加計学園とは何者か 特別長編レポート「学校経営を家業にした一族」”. 現代ビジネス. 講談社. 2017年7月22日閲覧。
  5. ^ a b c 澤田晃宏・長倉克枝 (2017年6月13日). “姿見えぬ加計理事長 獣医学部をつくりたいワケ”. AERAdot.. 朝日新聞出版. 2017年7月22日閲覧。
  6. ^ 加計学園について、創立者・加計 勉の足跡、学校法人 加計学園公式サイト。
  7. ^ “岡山・加計学園:人材育成へ連携 加計高校と協定 /広島 - 毎日新聞”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2017年2月12日). オリジナルの2017年6月5日時点におけるアーカイブ。. https://archive.fo/20170605132747/https://mainichi.jp/articles/20170212/ddl/k34/100/308000c 2017年7月22日閲覧。 
  8. ^ 麻生、42頁
  9. ^ 鶴蒔、2011年。p.196
  10. ^ 加計学園 加計 役 副理事長 - 山陽放送
  11. ^ 鶴蒔、2011年。p.199
  12. ^ 鶴蒔、2011年。p.192
  13. ^ a b c d e 名誉理事長特集” (PDF). 岡山理科大学同窓会会報42号. 岡山理科大学同窓会事務局. p. 12-13 (2008年10月20日). 2018年6月16日閲覧。
  14. ^ 加計学園の急成長を支えた「特異なビジネス」と「政界人脈」”. 現代ビジネス. 講談社 (2017年7月31日). 2018年6月16日閲覧。
  15. ^ 「2001年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人叙勲の受章者一覧」『読売新聞』2001年11月3日朝刊
  16. ^ 加計 勉名誉理事長の「歩んだ道」がTV放映(2005.12.25)”. 学校法人加計学園. 2018年6月17日閲覧。
  17. ^ 教育こそわが人生”. 蔵書検索・予約システム. 岡山県立図書館. 2018年6月17日閲覧。
  18. ^ 『旧軍毒ガス弾等の全国調査』のフォローアップ調査につい て”. 環境省. 2018年1月28日閲覧。
  19. ^ 戦時中の毒ガス弾が眠る危険な土地 いまだ1000発以上が行方不明”. 日刊SPA!(2017年11月24日). 2018年1月28日閲覧。

参考文献

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  • 『中国年鑑 昭和60年版 別冊』中国新聞社、1984年。

関連項目

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関連書籍

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  • 『加計学園グループの挑戦 -先賢の志で切り開いた私学教育の道-』鶴蒔靖夫著、IN通信社刊、2011年11月21日初版発行、ISBN 978-4-87218-355-9
  • 『道:加計勉・輝子五十年の歩み』麻生アヤ編集、加計教育振興会、1998年4月[1]
  • 『加計勉先生の新世紀への大いなる一歩:喜寿をことほぐ』麻生アヤ編集、加計教育振興会、2000年9月[2]

外部リンク

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  1. ^ 道:加計勉・輝子五十年の歩み 麻生 アヤ/編集”. 国立国会図書館. 2018年6月16日閲覧。
  2. ^ 加計勉先生の新世紀への大いなる一歩:喜寿をことほぐ 麻生 アヤ/編集”. 国立国会図書館. 2018年6月16日閲覧。