北島伝四郎
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北島 伝四郎(傳四郎、きたしま でんしろう、1863年11月22日(文久3年10月12日[1][2])- 1924年(大正13年)9月16日[1][3])は、明治から大正期の裁判官、弁護士、地主、政治家。衆議院議員。本姓・北嶋[3]。
経歴
[編集]出羽国秋田郡浦大町村字里ケ久[1](秋田県[3]秋田郡浦大町村、南秋田郡浦大町村、面潟村[4]浦大町[2]を経て現八郎潟町[1][2]浦大町)で、地主、素封家・北島吉右衛門の二男として生まれた[1]。宇野弥三郎、谷田部吉次に師事し和漢学、英語を修めた[1]。1886年(明治19年)上京して英吉利法律学校(現中央大学)で学び[1]、1889年(明治22年)9月に卒業[1]。
1889年12月27日、判事試補に任官し弘前始審裁判所詰となる[1][5]。以後、弘前区裁判所判事兼青森地方裁判所判事、秋田区裁判所監督、本荘区裁判所監督、大曲区裁判所監督、沼津区裁判所判事、横浜地方裁判所判事を歴任[1]。1898年(明治31年)2月に退官した[1]。その後、弁護士登録を行う[1]。
1898年3月、第5回衆議院議員総選挙(秋田県第1区)で当選し[1][6]、衆議院議員に1期在任した。その後、弁護士として活動[2]。また、山本郡富根村(二ツ井町を経て現能代市)の原野36ヘクタールを購入して水田化に取り組んだ[1]。
1924年9月、面潟の自宅で死去した[1]。
国政選挙歴
[編集]- 第5回衆議院議員総選挙(秋田県第1区、1898年3月、進歩党)当選[6]
- 第6回衆議院議員総選挙(秋田県第1区、1898年8月、憲政本党)次点落選[6]
- 第7回衆議院議員総選挙(秋田県郡部、1902年8月)落選[1]
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 杉渕廣『秋田代議士物語:帝国議会を生きた人々』秋田魁新報社、1989年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『秋田人名大事典(第二版)』秋田魁新報社、2000年。