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ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
北川源太郎から転送)

ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ(日本名:北川源太郎、ウィルタ語名:Dahinien Gendanu / Daxinnieni Geldanu, 1926年頃 - 1984年7月8日)は、樺太生まれのウィルタ(オロッコ)民族研究家・運動家である。ウィルタ民族。

第二次世界大戦中は特務機関員として日本軍に協力した。終戦後はシベリアにて抑留され、帰国後は北海道網走市に移住して肉体労働で生計をつないだ。自民族の研究家として活動し、戦後ウィルタ運動のリーダーとして北方少数民族の復権運動に尽力した。その後彼の呼びかけにより網走に作られたウィルタ文化資料館「ジャッカ・ドフニ」の初代館長となった。ダーヒンニェニ・ゲンダーヌという名前は「北の川のほとりに住む者」を意味する。

経歴

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ゲンダーヌの生まれ育ったオタスの杜(敷香町

ウィルタの呪者の家系に生まれ長老であった義父北川ゴルゴロと同様に遊牧と狩猟で生活を営んでいた[注釈 1]1933年昭和8年)以降、日本領南樺太ではアイヌ戸籍が与えられて「内地人」扱いとなったが、ウィルタやニヴフには戸籍が与えられず、「土人」扱いのままだった[2][注釈 2]

1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まると、日本陸軍はウィルタやニヴフの高い身体能力に目を付け、戸籍が未整備だった樺太の少数民族の若者へも召集をかけてソビエト連邦軍の動きを探る活動に従事させた[3][4][5]1942年、陸軍特務機関は、敷香町在住のウィルタ22人、ニヴフ18人の計40名に日本名を与え、諜報部隊に配置した[3][5]。「北川源太郎」の名を与えられたダーヒンニェニ・ゲンダーヌも、そうした「北方戦線の秘密戦士」の一人であった[5]

1945年(昭和20年)8月9日ソ連対日参戦8月20日樺太の戦いを経て樺太全島はソビエト連邦領となった。諜報員として召集された樺太先住民はソ連と戦って戦死し、生き残った者は戦後シベリアに抑留されたが、その多くは同地で死去したといわれる[5]。戦後、ポロナイスク(敷香町)に残されたウィルタの家族はほとんど女性と子どもだけになったが、彼らは日本軍に協力したスパイとみられた[5]。戦後、ウィルタの一部には網走市釧路市など北海道に移住した者もいたが、彼らは1952年(昭和27年)のサンフランシスコ平和条約発効の際、就籍という形で参政権を獲得した。

北川源太郎は、スパイ幇助罪の判決を受けて9年6か月にわたってシベリアに抑留され、強制労働に従事させられた[5][6]。抑留から解放されたときゲンダーヌは、サハリンで「戦犯者」の汚名を受けながら肩身の狭い思いをするよりは日本で生活しようと、1955年(昭和30年)、渡航先を京都府舞鶴港に選び、住地を故郷に雰囲気の似ている網走市に定めた[5][6]。彼は3年後、サハリンにいる父北川ゴルゴロと姉家族(総勢9人)を、9年後には、やはりサハリンにいる妹の北川アイ子の家族(総勢8人)を網走に呼び寄せた[6]。日本のために戦い、苦労もした彼であったが、彼を温かく迎えた人はなく、戸籍がないことも判明し、当初は就職すらできなかったという[5]。やがて、彼は、日本人「北川源太郎」と訣別し、ウィルタ人「ダーヒンニェニ・ゲンダーヌ」として生きることを決意する[5][7]

1975年(昭和50年)には、ゲンダーヌやその支援に奔走した田中了らの努力により、ウィルタ民族の人権戦後補償問題を解決する趣旨にもとづいて「オロッコの人権と文化を守る会」が設立された[5][6]。同年、かつての上官の手紙から旧軍人には恩給が支払われることを知ったゲンダーヌは、「オロッコの人権と文化を守る会」の協力も得ながら申請手続きを行ったものの恩給は認められなかった[5][注釈 3]。「オロッコの人権と文化を守る会」は、1976年12月、「ウィルタ協会」と改称された[5][6]。1976年、恩給問題は国会において議論されるに至ったが、当時の少数民族に日本国籍はなく、兵役義務もなかったので非公式の令状にて召集されたとして、彼らに戦後補償が与えられることはなかった。ゲンダーヌは、自分のためというよりはウィルタの同胞のために運動を展開したのである[5]1978年(昭和53年)、ウィルタはじめ北方民族の文化を残したいという彼の呼びかけに募金が集まり、網走市が提供した土地に「ジャッカ・ドフニ」(ウィルタ語で「大切な物を収める家」という意味)と名付けた資料館が設立された[7]

ゲンダーヌは、資料館の建設、慰霊碑の建設、樺太の同胞との交流という3つの願いを抱いた[5][8][9]。北方少数民族の文化を残したいというゲンダーヌの呼びかけにより780万円の募金が集まり、1978年に網走市が提供した土地にウィルタ語で「大切な物を収める家」という意味のジャッカ・ドフニと名付けられた資料館が完成し、その館長となった[5]。資料館にはウィルタの他、ニヴフ、樺太アイヌなどの民族の宗教・生活用具、衣装など約600点の資料を収蔵・展示し、踊りの実演なども行われた。樺太同胞との交流という夢も、その第1回は1981年に果たした[5]。さらに、1982年5月には網走市天都山に合同慰霊碑「キリシエ」が建立された[5][注釈 4]

ウィルタの語り部であった釧路市佐藤チヨ夫妻、ウィルタ語研究で知られる言語学者の池上二良とも親交があった[7][10][注釈 5]。ゲンダーヌは、池上の勧めで自分が思いつく限りのウイルタ語の単語や言い回しをアイウエオ順にカナ書きで記録している[10]。それが、彼の遺品ともなった8冊のノート「ウイルタのことば」である[10]。このなかには、子どもの頃のアザラシ猟の光景が思い浮かぶような記述があった[10]。それ以外にも、オタスの土人教育所での恩師(川村秀弥)との思い出を日本語・ウィルタ語の両方で書き綴った文章も残っている[11]

1984年7月8日、網走の「ジャッカ・ドフニ」において急逝[7]。その後は、兄の遺志を継いだ北川アイ子が館長を務めた[5][注釈 6]。北川アイ子は2007年に死去、ウィルタ協会は建物老朽化などを理由にジャッカ・ドフニの閉館を決定し、2010年に32年の歴史を閉じた[8]。閉館後、収蔵資料は北海道立北方民族博物館に移管されている[8]

伝記・関連書籍

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  • 田中了(著)D・ゲンダーヌ(口述)『ゲンダーヌ ある北方少数民族のドラマ』現代史出版会、1978年 ISBN 4-19-801474-4)、
  • 田中了『サハリン北緯50度線 続・ゲンダーヌ』草の根出版会、1993年 ISBN 4-87648-097-4
  • 津島佑子『ジャッカ・ドフニ――海の記憶の物語』集英社、2016年 - 津島の長編小説としての遺作となった[9]

脚注

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注釈

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  1. ^ ダーヒンニェニ・ゲンダーヌの生まれ育った「オタスの杜」は、樺太庁管轄下のアイヌ以外の先住民を集住させる村落として1926年以降、敷香郡敷香町に造成された[1]。ただし、当時約400名いたといわれるウィルタやニヴフ(ギリヤーク)のうち、オタスに暮らしたのは半数以下とみられている[1]
  2. ^ 樺太アイヌには刑法民法が適用されたが、ウィルタとニヴフには刑法のみが適用されるにとどまった[3]
  3. ^ 不許可の理由として、戸籍法の適用を受けていない者には兵役法が適用されないこと、兵役法にもとづかない召集令状は無効であること、無効の召集令状を知らずに受けて従軍し、そのために戦犯者として抑留されたとしても日本政府の関知するところではないことなどの5点が政府見解として示された[5]
  4. ^ 「キリシエ」は、ウィルタとニヴフの戦没者を慰霊する合同慰霊碑である[5]
  5. ^ ゲンダーヌは池上二良にあててウィルタ語で私信を出している[11]。ウィルタが実用目的でウィルタ語を書いた先駆的事例である[11]
  6. ^ 自分がウィルタであることを公式に名乗ったのは、ダーヒンニェニ・ゲンダーヌを除けば北川アイ子くらいのものだったという[5]

出典

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  1. ^ a b 天野(2017)pp.30-32
  2. ^ 天野(2017)pp.26-32
  3. ^ a b c 平山(2018)p.167
  4. ^ 真野森作. “あの人気漫画の舞台「樺太」の戦前、戦中、そして戦後”. 政治プレミア. 毎日新聞. 2022年7月15日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 榎澤幸広「ウィルタとは何か? -弦巻宏史先生の講演記録から 彼らの憲法観を考えるために- 第一部」『名古屋学院大学論集 社会科学篇』第48巻、第3号、名古屋学院大学、80-87頁、2012年1月。 NAID 120006009768 
  6. ^ a b c d e 弦巻宏史・榎澤幸広「ウィルタとは何か? -弦巻宏史先生の講演記録から 彼らの憲法観を考えるために- 第二部」『名古屋学院大学論集 社会科学篇』第48巻、第3号、名古屋学院大学、87-113頁、2012年1月。 NAID 120006009768 
  7. ^ a b c d 津曲敏郎 (2020年3月13日). “「小さな夢」を引き継ぐ 1.ウイルタとして生きる”. 館長の部屋. 北海道立北方民族博物館. 2022年7月15日閲覧。
  8. ^ a b c 【コラムリレー第27回】北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ - 北海道博物館協会学芸職員部会(地域の遺産)
  9. ^ a b 池澤夏樹 (2018年5月7日). “池澤夏樹 北海道150年を歩く(2)開かれた地、悲劇の記憶”. 朝日新聞. http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20180507011680001.html 2019年5月18日閲覧。 
  10. ^ a b c d 津曲敏郎 (2020年3月17日). “「小さな夢」を引き継ぐ 2.アザラシ猟の記憶”. 館長の部屋. 北海道立北方民族博物館. 2022年8月15日閲覧。
  11. ^ a b c 津曲敏郎 (2020年3月19日). “「小さな夢」を引き継ぐ 3.川村先生への言葉 4.夢の続きのために”. 館長の部屋. 北海道立北方民族博物館. 2022年8月15日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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  • 榎澤幸広「ウィルタとは何か? -弦巻宏史先生の講演記録から 彼らの憲法観を考えるために- 第一部」『名古屋学院大学論集 社会科学篇』第48巻、第3号、名古屋学院大学、80-87頁、2012年1月。 NAID 120006009768 
  • 弦巻宏史・榎澤幸広「ウィルタとは何か? -弦巻宏史先生の講演記録から 彼らの憲法観を考えるために- 第二部」『名古屋学院大学論集 社会科学篇』第48巻、第3号、名古屋学院大学、87-113頁、2012年1月。 NAID 120006009768