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乾隆帝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
十全老人から転送)
乾隆帝 愛新覚羅弘暦
第6代皇帝
清高宗乾隆帝朝服像(ジュゼッペ・カスティリオーネ画、北京故宮博物院蔵)
王朝
在位期間 雍正13年8月23日 - 乾隆60年12月30日
1735年10月8日 - 1796年2月8日
都城 北京
姓・諱 愛新覚羅弘暦(アイシンギョロ・フンリ)
満洲語 ᠠᡞᡃᡞᠨ ᡤᡝᠣᠴᠣ
ᡥᡠᠩ ᠯᡞ
(aisin gioro hung li)
諡号 純皇帝(yongkiyangga hūwangdi)
法天隆運至誠先覚体元立極敷文奮武欽明孝慈神聖純皇帝 (abka be alhūdaha, forgon be wesihun obuha, ten i unenggi, nenden sarasu, ikengge dursulehe, ten be ilibuha, šu selgiyehe, horon badarambuha, hiyoošungga lilangga šengge enduringge yongkiyangga hūwangdi)[1]
廟号 高宗
生年 康熙50年8月13日
1711年9月25日
没年 嘉慶4年1月3日
1799年2月7日
雍正帝
熹貴妃(孝聖憲皇后、崇慶皇太后)
后妃 孝賢純皇后フチャ氏
継皇后ナラ氏
陵墓 裕陵(tomohonggo munggan)
年号 乾隆(abkai wehiyehe) : 1736年 - 1795年
愛新覚羅顒琰(嘉慶帝)
皇子時代の弘暦(北京故宮博物院蔵)
即位直後の乾隆帝(ジュゼッペ・カスティリオーネ画、1736年)
乾隆帝(カスティリオーネ画)
乾隆帝
儀礼用甲冑を着けた乾隆帝(カスティリオーネ画、1758年)
乾隆帝(カスティリオーネ画)
乾隆帝の南巡(1765年)
乾隆帝に謁見するマカートニー使節団(1793年、アーノルド・J・トインビー歴史の研究』より)
晩年の乾隆帝(北京故宮博物院蔵)

乾隆帝(けんりゅうてい)は、の第6代皇帝。清王朝の最盛期を創出する。弘暦(こうれき)、廟号高宗(こうそう)。在世時の元号乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。

生涯

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即位

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雍正帝と側妃の熹貴妃ニオフル氏(孝聖憲皇后満洲鑲黄旗出身)との間の子(第4子)として生まれる。祖父の康熙帝に幼い頃からその賢明さを愛され、生まれついての皇帝になる人物と目されており、太子密建を経て即位した。

質素であった祖父帝、父帝とは違い派手好みの性格であった。父帝の崩御後、25歳で即位すると父帝の時期に助命された曾静中国語版張熙とともに逮捕し凌遅刑に処して、その一族も処刑するなどその存在感を示した。

外征

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乾隆帝の功績としてまず挙げられるのが「十全武功」と呼ばれる10回の外征である。ジュンガル1755年1757年 - 1759年清・ジュンガル戦争)、四川大金川小金川1747年 - 1749年1771年 - 1776年大小金川の戦い中国語版)、グルカ1788年 - 1789年1791年 - 1792年清・ネパール戦争、戦闘はチベットネパールで行なわれた)に2回ずつ、回部ウイグル)およびバダフシャーン1757年 - 1759年大小和卓の乱中国語版)、台湾林爽文事件)、ミャンマーコンバウン王朝1765年 - 1769年清緬戦争)、ベトナム西山朝1789年ドンダーの戦い)に1回ずつ計10回の遠征を十全武功と言って誇り、自身を十全老人と呼んだ。これにより清の版図は最大規模にまで広がり、また、ミャンマー[2]、ベトナム[3]ラオスタイまで朝貢するようになった。十全武功も乾隆帝は「全て勝った」と言っているが、中央アジアでは酷い苦戦もあり、ベトナム、ミャンマーなど実質的には負けの遠征もあった。また、苗族の反乱(1735年 - 1736年英語版1795年 - 1806年英語版)や白蓮教徒の乱などが起こった。さらにこの時期にイエズス会の活動を禁止し、完全な鎖国体制に入ったことで、のちの欧米の侵攻に対する清政府の抵抗力を奪ってしまった。1793年イギリスの使節としてマカートニーが入朝したのは乾隆帝の代であるが、三跪九叩頭の礼は免除したものの貿易摩擦に関するイギリスの要求は退けている。

内政

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国内政治においては、雍正帝の時代に置かれた軍機処が恒常的な政務機関となっていった。康熙雍正年間の繁栄にも支えられて国庫が充実していたため、民衆にはたびたび減税を行った。また、古今の優れた書物を書き写し保存するという文化的大事業である『四庫全書』の編纂や、上記の10回の外征も、こうした豊かな経済力を前提としていた。この時期には文化が大いに振興し、宮廷はきらびやかに飾られ、乾隆帝自身も数多くの漢詩を作った。乾隆帝はまた中国の伝統的な文物をこよなく愛し、現在も故宮博物院に残る多くのコレクション[4]を収集し、たびたび江南へ行幸した(六巡南下)。これらの軍事的・文化的な成功により三世の春の最後である乾隆帝の治世は清の絶頂期と称えられる。自らも「史上自分ほど幸福な天子はいない」と自慢していたという。

宮廷画家たちを重宝したことでも大きく有名である。康熙帝や雍正帝の頃までは宮廷画家たちのための確たる組織というものはなく、養心殿造辧処という、諸々の職人たちをまとめる組織の中に「画画処(画を画く処)」という部門があるにとどまっていたが、乾隆帝は即位とともに「画院処」を設けた。この「画院処」が「画院(がいん)」の大本であったと言う指摘もされている。さらにそれとは別にヨーロッパの画家などが仕事をする場としての「如意館」があった。画院の歴史においてもこのように同時代に2つの画院が設けられているのは極めて特異である[5]とされる。

さらにチベット仏教に篤く帰依していた。チベット語の大蔵経をモンゴル語と満洲語に翻訳し、北京や熱河に多くのチベット寺を建て、チベット仏教僧を供養するなどといったことを行っていた。チベット仏教に関連する重要な事績は大きく3つある。1つ目は、皇城に接する北海の北に国家鎮護の仏である白傘蓋仏を祀る寺を建てたこと。2つ目は、北京初のチベット僧院ガンデン・チンチャクリンを設立したこと。3つ目はチャンキャ3世が乾隆帝にチャクラ・サンヴァラ尊の灌頂を授けたことである。灌頂(かんじょう)とはサンスクリット語でアビシェーカ、チベット語ではワンと言い、「仏の力を授かること」を意味している[6]

治世後半

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その一方で清朝退廃の芽生えもあった。乾隆帝は奸臣のヘシェン(和珅)を重用し続けた。ヘシェンは皇十五子永琰と他の臣たち全てに憎まれていた。文字の獄と呼ばれる思想弾圧で多くの人々を処罰し、禁書も厳しく実施した。

1738年(乾隆3年)10月に正室との皇二子永璉(えいれん)を9歳で亡くした。その2カ月後の12月、ジュゼッペ・カスティリオーネという画家に「歳朝図」の作成を命じ、皇帝と皇子たちの団欒のさまを活写させたという。その出来上がった「歳朝図」には永璉の姿も描かれていたという。この際皇二子永璉を亡くしているが、元々乾隆帝には17人の皇子がいた(下の「后妃」の欄を参照)。しかし乾隆帝が85歳にて退位しようとした時には49歳の皇八子永璇(えいせん)・43歳の皇十一子永瑆(えいせい)・35歳の皇十五子永琰(えいえん)・29歳の皇十七子永璘(えいりん)の4人しか残っていなかったという[7]

1795年、治世60年に達した乾隆帝は祖父の康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で皇十五子永琰(嘉慶帝)に譲位し太上皇帝となったが、その実権は手放さず、清寧宮で院政を敷く一方でヘシェンに政治権限を委ねた[要出典]。いかに嘉慶帝といえども、乾隆上皇が生きている間はヘシェンの跳梁をどうにも出来ず、宮廷内外の綱紀は弛緩した[要出典]

1799年に崩御。陵墓は清東陵内の裕陵。ヘシェンは乾隆上皇の崩御後、嘉慶帝によってただちに死を賜っているが、没収された私財は国家歳入の十数年分[8]に達したという(当時の世界のGDPの3割が清である)。中華民国期の1928年に国民党の軍閥の孫殿英によって東陵が略奪される事件が起き(東陵事件)、乾隆帝の裕陵及び西太后の定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた[要出典]

文化事業

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唐宋詩醇』の編著を行った[9]

后妃

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出典・脚注

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  1. ^ "daicing gurun i g'aozung yongkiyangga hūwangdi i enduringge tacihiyan" 1800. [1]
  2. ^ 増井経夫『大清帝国』講談社〈講談社学術文庫〉、2002年、120頁。ISBN 4-06-159526-1 乾隆30年代にビルマに内乱が起こり、乾隆帝はこれに介入して乾隆34年(1769年)にビルマを朝貢国とした。
  3. ^ 増井経夫『大清帝国』講談社〈講談社学術文庫〉、2002年、120頁。ISBN 4-06-159526-1 乾隆53年(1788年)ベトナムが王朝交替で乱れると、これに介入して同じく朝貢国とした。
  4. ^ 『乾隆帝のコレクション』日本放送出版協会〈故宮博物院15〉、1999年。 NHKスペシャルで紹介放映され、書籍化。
  5. ^ 中野美代子『乾隆帝-その政治の図像学』(第1刷)文春新書、2007年4月、90-91頁。ISBN 9784166605675 
  6. ^ 石濱裕美子『清朝とチベット仏教-菩薩王となった乾隆帝』(第1刷)早稲田大学出版部、2011年9月、150-168頁。ISBN 9784657117120 
  7. ^ 中野美代子『乾隆帝-その政治の図像学』(第1刷)文春新書、2007年4月、41頁。ISBN 9784166605675 
  8. ^ 寺田隆信『紫禁城史話 中国皇帝政治の桧舞台』(初版)中公新書、1999年3月。ISBN 9784121014696 
  9. ^ 小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ), ブリタニカ国際大百科事典. “唐宋詩醇とは”. コトバンク. 2021年3月14日閲覧。

日本語文献

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史料文献

登場作品

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小説
  • 書剣恩仇録金庸) - 著者の故郷の海寧県で伝わる民間伝承をもとにして、「乾隆帝漢人説」を設定された小説。
映画化
テレビドラマ化
映画
テレビドラマ
漫画

関連項目

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外部リンク

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