千坂高明
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時代 | 幕末 |
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死没 | 明治2年4月11日(1869年5月22日) |
別名 | 幼名:琢磨 |
諡号 | 松翠 |
墓所 | 日朝寺 |
官位 | 伊豆守 |
主君 | 上杉斉憲 |
藩 | 米沢藩江戸家老・奉行 |
氏族 | 千坂氏 |
父母 | 父:千坂興高 母:竹俣権左衛門の娘 |
子 | 千坂高雅 |
千坂 高明(ちさか たかあき)は、江戸時代後期の米沢藩の重臣。戊辰戦争当時の米沢藩奉行・軍務総督千坂高雅の父。
経歴
[編集]天保5年(1834年)10月17日家督相続、嘉永2年(1849年)2月28日侍頭、同3年(1850年)8月28日江戸家老兼侍頭、同6年(1851年)5月23日奉行職 [1]。
文久3年(1863年)1月藩主上杉斉憲の将軍徳川家茂上洛供奉に随行。 11月3日、上杉斉憲一行が米沢に帰国するが、まもなく藩内上洛組と留守居組の重臣達の協議が開かれ、その折、留守の長尾権四郎と上洛供奉の家老・竹俣美作の間に意見対立があり、長尾が竹俣を罵倒したため、憤然とした竹俣が家老辞職を申し出、諸重臣も両者の意見の是非をめぐって甲論乙駁、大紛擾に発展する気配がみえたが、千坂高明が仲裁に入り嫡男千坂高雅の意向を入れて、長尾には竹俣に対する失言の詫びをいれさせ、和議を成立させた[2]。
戊辰戦争当時は嫡男千坂高雅が米沢藩奉行、軍務総督として前線で戦う。新政府軍への降伏後、宮島誠一郎が病床の千坂高明に見舞いに行った際、「隠居(高明)病床ニテ十然発怒シテ日。若林作兵衛ノ馬鹿野郎カ国家ヲ誤ッタ。此上ハ与一(高雅)ハ腹ヲ切ッテ朝廷ニ謝罪スルノ外ニ策ナシ」とその時に高明が話したことが日記に記録されている[3]。
明治2年(1869年)4月11日死去。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『上杉家御年譜23「御家中諸士略系譜」』米沢温故会 1986.1
- 『米沢市史 第3巻(近世編3)』米沢市史編さん委員会 編 1993.3
- 『戊辰日記』宮島誠一郎 米沢市史編集資料第28号 米沢市史編さん委員会 1998.3