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千種有梁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

千種 有梁(ちぐさ[1][2] / ちくさ[要出典] ありはる、1858年4月11日安政5年2月28日[1]) - 1906年明治39年)7月11日[1][3])は、日本の医師政治家華族貴族院子爵議員。旧名・茂、茂樹[1][4][5]。旧姓・伏谷[1][4][5]

経歴

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山城国愛宕郡西殿町で千種有任の二男として生まれ、1874年(明治7年)陸軍軍人・伏谷淳の養子となる[1][5][6]。その後、千種家に復帰し、1889年(明治22年)有梁に改名[7]。実父の死去に伴い1892年(明治25年)9月23日、子爵を襲爵した[1][8]

幼少から英学、数学を修め、和歌にも親しんだ[6]1876年(明治9年)群馬県立医学校に入学し、同校廃校のため、県費生として大学予備門に入学[6]1879年(明治12年)県費生解約となり、長谷川泰佐藤進に師事して研鑽を積んだ[6]1881年(明治14年)医術開業試験に合格して、1882年(明治15年)内務省から内科・外科医術開業免状の交付を受けた[6]1883年(明治16年)群馬県立病院雇となる[6]。東京赤十字社病院、大学病院勤務を経て[2]1885年(明治18年)東京府本所区松井町で開業[6]1890年(明治23年)栃木県日光で有志の願いにより日光医院、回生医院、森先医院などを設立し、医師への指導、困窮世帯への医療や、また、天然痘流行への対処に尽力した[6]

1897年(明治30年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[9]1904年(明治37年)7月9日まで1期在任した[3]。その他、英照皇太后御葬祭斎官などを務めた[3]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『平成新修旧華族家系大成』下巻、88-89頁。
  2. ^ a b 『日本人名大辞典』1212頁。
  3. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』48頁。
  4. ^ a b 『千種家譜』
  5. ^ a b c 「華族千種有任二男茂ヲ千葉県士族伏谷惇ノ養子トス」
  6. ^ a b c d e f g h 『大日本医家実伝』58-62頁。
  7. ^ 『人事興信録』〔初版〕、234頁。
  8. ^ 『官報』第2774号、明治25年9月24日
  9. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、8頁。

参考文献

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  • 『千種家譜』1875年。東京大学史料編纂所所蔵。
  • 石戸頼一『大日本医家実伝』石戸頼一、1893年。
  • 人事興信所編『人事興信録〔初版〕』人事興信所、1903年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
  • 太政官「華族千種有任二男茂ヲ千葉県士族伏谷惇ノ養子トス」明治7年。国立公文書館 請求番号:太00557100


日本の爵位
先代
千種有任
子爵
千種家第2代
1892年 - 1906年
次代
千種有秀