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千葉胤宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
千葉胤宗
時代 鎌倉時代中期 - 後期
生誕 文永5年9月24日1268年10月31日
死没 正和元年3月28日1312年5月5日
別名 千葉介
幕府 鎌倉幕府
主君 将軍:惟康親王久明親王守邦親王
得宗:北条時宗貞時(→高時
氏族 千葉氏
父母 父:千葉頼胤、母:千田泰胤の娘
兄弟 宗胤胤宗
北条顕時の娘
貞胤粟飯原氏光
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千葉 胤宗(ちば たねむね)は、鎌倉時代中期から後期にかけての武将鎌倉幕府御家人千葉氏第10代当主。第8代当主千葉頼胤の次男。

概要

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頼胤の没後、父に代わって兄宗胤異国警固番役として肥前国に赴き下総国を離れたため、胤宗が留守を預かることになり千葉氏の第10代当主となる。なお六浦荘地頭金沢北条氏下総国守護の千葉氏と縁を重ねており、北条顕時は娘を胤宗に嫁がせることによって関係を深めている。このため北条氏との関係は深く、胤宗の名も得宗家当主・鎌倉幕府第8代執権北条時宗より偏諱を受けて名乗ったものとみられる[注釈 1]

胤宗没後子の貞胤は、南北朝の戦いに際し北朝方についた兄宗胤の嫡男胤貞と千葉氏の家督を巡り争うが、敗れて北朝方に降伏した。しかし降伏した貞胤は北朝方に寝返って千葉氏の家督を守りきり、これにより胤宗の子孫が千葉氏宗家として存続した。

伝承

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『千学集抜粋』・『妙見実録千集記』には以下の伝承が伝えられている。

胤宗が大番役として京都に居た時、内裏の宝蔵に藤原保昌酒呑童子から奪った「宝生の懐太刀」と呼ばれる宝剣があると聞き、蔵の鑰を管理していた女房と契って宝剣を持ち出してそのまま帰国して千葉妙見宮に奉納した。ところが、その後に件の女房が宝剣を無くした罪で処刑されたことを聞いた胤宗はこれを悔やみ、7体の阿弥陀仏を作らせて彼女の菩提を祈ったと伝えられている。

この伝承は、兄・宗胤の系統に比べて嫡流としての正当性に欠いた胤宗の子孫の千葉氏宗家が、武者としての名高い保昌および千葉妙見宮にまつわる伝承を胤宗に付与することで、権威づけを図ったとみられている[6]

脚注

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注釈

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  1. ^ 得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった千葉氏もその統制下にあった[1][2]。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており[3][4](詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰胤北条泰時頼胤北条時頼宗胤胤宗兄弟が北条時宗胤貞貞胤北条貞時高胤北条高時から一字を拝領したと考えられる[5]

出典

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  1. ^ 菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年。 
  2. ^ 肥前千葉氏調査委員会「「服部英雄 中世小城の景観・海から考える」」『中世肥前千葉氏の足跡 : 小京都小城の源流』佐賀県小城市教育委員会、2011年。hdl:2324/20437CRID 1130282270956311040https://hdl.handle.net/2324/20437 
  3. ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、2004年。 
  4. ^ 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年、163頁。 
  5. ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』二、1979年、p.15系図・p.18。 
  6. ^ 外山信司 著「藤原保昌伝承と千葉氏-『千学集抜粋』の酒呑童子説話をめぐって-」、佐藤博信 編『中世東国の社会と文化』岩田書院〈中世東国論 7〉、2016年。ISBN 978-4-86602-981-8 

参考文献

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