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千葉胤直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
千葉胤直
『英雄百首』(歌川貞秀画)
時代 室町時代中期
生誕 応永26年8月21日1419年9月10日
死没 康正元年8月15日1455年9月26日
別名 千葉介(通称)
官位 従五位下
幕府 室町幕府 下総守護
氏族 千葉氏
父母 父:千葉兼胤、母:上杉禅秀の娘
兄弟 胤直胤賢
胤将胤宣
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千葉 胤直(ちば たねなお)は、室町時代中期の武将守護大名千葉氏第16代当主。父は第15代当主千葉兼胤、母は上杉禅秀の娘。

生涯

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正長元年(1428年)8月に高野山を参詣して蓮花三昧院と師檀の契約を結び、今後下総・上総の高野山参詣者は同院を宿坊にするように定めたとする伝承がある[1]

永享2年(1430年)、父の死により家督を継ぐ。鎌倉公方足利持氏室町幕府からの自立を画策すると、関東管領上杉憲実と共に諌めた[2]

永享10年(1438年)持氏が憲実討伐を計画すると、鎌倉軍に属す(永享の乱)。しかし、武蔵高安寺にて幕府軍の出動を知り憲実との和議を結んで善後策を講じるように主張して、継戦を唱える簗田満助らと口論に及ぶ。持氏が満助の説を採ったために陣を退いて下総市河に移るが、その後憲実に属して持氏を攻め、翌年上杉持朝と共に鎌倉永安寺に幽閉されていた持氏を討ち取った(『鎌倉大草紙』)[3]。直後の結城合戦でも幕府軍に属して結城城を攻めたが、嘉吉元年(1441年)に憲実と共に出家して家督を嫡男の胤将に譲った。

その後、持氏の遺児である足利成氏が鎌倉公方として復帰すると、胤直は胤将と共にこれを支える。享徳3年(1454年)に胤将が急死したために幼い次男の胤宣が千葉氏を継ぐ事になり、胤直が後見を行うことになった。だが、成氏が再び上杉氏討伐を企てたために離反して上杉氏と共に成氏を攻撃する(享徳の乱)。これに対して翌康正元年(1455年)に8代将軍足利義政から胤直・胤賢父子に対して賊である成氏に組せず、幕府に忠節を尽くしている事を賞する御内書が出されている。

ところが、かねてから親上杉派である胤直と重臣の円城寺尚任に不満を抱いていた叔父の馬加康胤と重臣の原胤房の連合軍が胤直を攻撃[4]。胤直・胤宣父子は千田庄多胡に逃れて防戦したが、同年8月12日に胤宣が自刃し、胤直も3日後の15日に自刃して果てた。また、援軍にかけつけた常陸国大掾頼幹(妙充)もこの時に自害している[5]。これにより、家督は康胤に奪われ、千葉氏宗家は滅亡した。この事件を契機として、千葉氏は次第に衰退してゆくのであった。

9月7日に弟の胤賢も討たれるが、甥の実胤自胤兄弟は康正2年(1456年)に武蔵まで落ち延び、幕府奉公衆東常縁扇谷上杉家家宰太田道灌の支援を受けて康胤及びその子孫と対峙することになり、前者は武蔵千葉氏、後者は下総千葉氏として分裂していく。

脚注

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  1. ^ 吉田政博「中世東国における〈西国〉への参詣」『戦国・近世初期 西と東の地域社会』橋詰茂 編、岩田書院、2019年6月。ISBN 978-4-86602-074-7 P293.
  2. ^ 『史料総覧』第7編907冊682頁
  3. ^ 『史料総覧』第7編907冊688頁
  4. ^ 『史料総覧』第7編908冊54頁
  5. ^ 中根正人「室町中期の常陸大掾氏」(初出:『千葉史学』62号(2013年)/所収:高橋修 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一六巻 常陸平氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-167-7

参考文献

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  • 東京大学史料編纂所 大日本史料データベース
  • 石橋一展「室町期千葉氏に関する覚書き―胤直期を中心に―」(佐藤博信編『千葉大学人文社会科学研究科プロジェクト報告書162号中世東国史の総合的研究』千葉大学大学院人文社会科学研究科、2010年)
  • 石橋一展「室町期下総千葉氏の動向―兼胤・胤直・胤将―」(『千葉史学』66号、2015年)

外部リンク

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