南国梵桂
表示
南国 梵桂(なんごく ぼんけい)は、安土桃山時代の臨済宗の僧。和泉国岸和田(大阪府岸和田市)の本徳寺[1][2]を開基したと伝わる。
俗説に、明智光秀の子と云われるが定かではなく、一説には光秀の長男・明智光慶ともされる。
光慶説
[編集]光秀の長男の十五郎光慶は、父に従い本能寺の変や山崎の戦いに参加し、坂本城で自害したとも、亀山城で亡くなったともいわれ、はっきりしていない。生き延びて、京都妙心寺の住職玄琳になったという説もある。
光慶は出家し、妙心寺の塔頭・瑞松院[3]に住して「玄琳」を名乗った。瑞松院は、江戸初期には光秀の妻・煕子[4]の実家である旗本妻木氏が檀那となっていた。また、玄琳の師は大心院[5]主・三英瑞省で、光秀の三女・珠[6](細川ガラシャ)の夫・細川忠興が旦那となっていた。
妙心寺には「明智風呂[7][8][9]」と呼ばれる蒸し風呂形式の浴室[10]がある。光秀の菩提を弔うために建てられたと言われており、国の重要文化財に指定されている。
また玄琳は、「明智系図」(「続群書類従」所収)を作成したと言われている。
脚注・出典
[編集]- ^ 京都にある臨済宗大本山妙心寺の末寺、山号は鳳凰山
- ^ もと鳥羽(貝塚市鳥羽)にあった海雲寺が、岸和田藩主岡部行隆の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。
- ^ 1574年(天正2年)、滝川一益によって建立、明治維新後廃院
- ^ 光慶・珠の生母
- ^ 妙心寺の塔頭
- ^ 玉とも言う。
- ^ 妙心寺では毎年光秀の命日である6月14日に施浴をした。
- ^ この明知風呂を建立した妙心寺の僧・蜜宗は光秀の叔父と言われている。
- ^ 風呂が沸いたことを知らせる合図の鐘が春日局によって建立されていたが火災により焼失
現存の鐘は、京都の東山仁王門の信行寺にあった鐘楼を譲り受け、移築。この鐘も春日局が塔頭の麟祥院に寄進したもの - ^ こういった寺に設けられた大型浴室による施浴(施湯)が後の大衆浴場、いわゆる銭湯の原型となった。