南村梅軒
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南村 梅軒(みなみむら ばいけん、? - 天正7年(1579年)?)は戦国時代の儒学者。号は離明翁。周防国(現・山口県)出身。江戸時代に発達した土佐儒学(南学)の祖と称される[1]。
周防で大内義隆に仕えたのち、天文年間に土佐国へ渡り程朱学を弘岡城主・吉良宣経に講じたという[1]。宣経が没すると再び周防へ帰って大内義長に仕え、隠棲したのちその地で没した[1]。谷時中らの南学は彼の学の系統とされている。主な著書に『三十六策問』がある。
近年の歴史学の進展に伴い、江戸時代初期の儒学者・大高坂芝山が捏造した架空の人物であるとの説が有力となってその存在が疑問視され[2][1]、2003年度版からは山川出版社の高等学校検定教科書においてその記述が削除されている。
脚注
[編集]- ^ a b c d 小項目事典,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),朝日日本歴史人物事典,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,ブリタニカ国際大百科事典. “南村梅軒(みなみむらばいけん)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年3月1日閲覧。
- ^ “【教育コラム】歴史学と歴史教育”. 東北福祉大学. 2023年3月1日閲覧。