南淵永河
時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 宝亀8年(777年) |
死没 | 天安元年10月12日(857年11月2日) |
官位 | 正四位下・因幡権守 |
主君 | 平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇 |
氏族 | 坂田宿禰→朝臣→南淵朝臣 |
父母 | 父:坂田奈弖麻呂、母:槻本老娘 |
兄弟 | 弘貞、永河 |
子 | 年名 |
南淵 永河(みなぶち の ながかわ)は、平安時代初期の貴族。姓は坂田宿祢のち坂田朝臣、南淵朝臣。大和守・坂田奈弖麻呂の三男。官位は正四位下・因幡権守。
経歴
[編集]朝野鹿取・小野岑守・菅原清人らと共に春宮・神野親王(のち嵯峨天皇)の侍読を務める[1]。大同元年(806年)少外記。
大同4年(809年)嵯峨天皇の即位に伴い民部少丞に任ぜられ、弘仁4年(813年)従五位下・但馬介に叙任される。民部少輔・治部少輔・備後守を経て、弘仁10年(819年)従五位上・権左少弁に叙任されると、弘仁11年(820年)右近衛少将に右中弁、弘仁12年(821年)には正五位下・左中弁に蔵人頭を兼ねるなど嵯峨朝後半は文武の要職を歴任した。しかし、弘仁13年(822年)蔵人頭の官職を解かれている。
弘仁14年(823年)淳和天皇の即位に伴って従四位下・内蔵頭に叙任されると共に冷然院別当に任ぜられるが、まもなく越前守として地方官に転任する。同年12月には兄・弘貞と共に坂田朝臣から南淵朝臣に改姓している。のち、時期は不明ながら越中守に任ぜられるなど、淳和朝では地方官を務めた。天長10年(833年)従四位上。
仁明朝に入り、承和4年(837年)備前守次いで大宰大弐に任ぜられるが、仁愛を以て務めとなし庶民に慕われたという[1]。またこの間に派遣・帰国した第19次遣唐使への対応にもあたっている。承和10年(843年)任期を終えて帰京したのち刑部卿に任ぜられるが、間もなく希望して地方官である播磨守に転任、承和12年(845年)正四位下・近江守に叙任された。
70歳を過ぎて辞官を請い、文徳朝では仁寿元年(851年)国の老臣として遙任で下野守のち因幡守・因幡権守を歴任した。天安元年(857年)10月12日卒去。享年81。最終官位は正四位下行因幡権守。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 延暦25年(806年) 4月:少外記
- 大同4年(809年) 4月:民部少丞
- 時期不詳:正六位上
- 弘仁4年(813年) 正月7日:従五位下。正月10日:但馬介
- 弘仁8年(817年) 閏4月:民部少輔
- 弘仁9年(818年) 2月:治部少輔。日付不詳:兼備後守
- 弘仁10年(819年) 正月7日:従五位上。6月:権左少弁
- 弘仁11年(820年) 5月:右近衛少将。8月:右中弁
- 弘仁12年(821年) 正月:左中弁。正月:蔵人頭[2]。6月:正五位下。6月:治部大輔
- 弘仁13年(822年) 日付不詳:解蔵人頭[2]
- 弘仁14年(823年) 4月:従四位下。日付不詳:内蔵頭。日付不詳:冷然院別当。日付不詳:越前守。12月:坂田朝臣から南淵朝臣に改姓
- 天長4年(827年)以前:見越中守[3]
- 天長10年(833年) 正月7日:従四位上
- 承和4年(837年) 春:備前守。7月19日:大宰大弐
- 承和10年(843年) 2月10日:刑部卿
- 時期不詳:播磨守
- 承和12年(845年) 正月7日:正四位下。正月11日:近江守
- 仁寿元年(851年) 正月11日:下野守
- 仁寿3年(853年) 10月16日:因幡守
- 斉衡4年(857年)2月16日:因幡権守。10月12日:卒去(正四位下行因幡権守)