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厚見峻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
厚見あつみ たかし
生誕 1921年11月23日
日本の旗 日本埼玉県北葛飾郡幸松村(現・春日部市
死没 (1941-12-08) 1941年12月8日(20歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ハワイ準州 (詳細不明)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1938年 - 1941年
最終階級 海軍少尉
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厚見 峻(あつみ たかし、1921年大正10年)11月23日 - 1941年昭和16年)12月8日)は、日本海軍軍人。第2期海軍甲種飛行予科練習生。空母「蒼龍」戦闘機搭乗員として真珠湾攻撃に参加。戦死による二階級特進で最終階級は海軍少尉

来歴

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埼玉県北葛飾郡幸松村(現・春日部市)に、7男3女の末っ子として生まれた。

粕壁小学校を経て埼玉県立粕壁中学校(現・埼玉県立春日部高等学校)に学び、1938年(昭和13年)4月1日、第2期海軍甲種飛行予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊した。海軍航空隊への入隊に先立ち、厚見は母に「母さん、これで僕の第一希望は達せられた。この上は戦闘機に乗りたいと思います。そして戦運に恵まれて、敵機をたたき落としたいと思います。そのほかには、名誉も金もいりません」と言って横須賀に向かった[1]

1939年(昭和14年)3月1日霞ヶ浦海軍航空隊に転じ、同年12月22日大分海軍航空隊付となる。

1940年(昭和15年)5月18日大村海軍航空隊付。同年10月21日、空母「蒼龍」に乗艦する。1941年(昭和16年)10月1日海軍一等飛行兵曹(一飛曹)に任ぜられる。

1941年(昭和16年)12月8日(現地時間12月8日)、第2次攻撃隊の第3集団第3制空隊第3中隊第1小隊(隊長・飯田房太大尉)の2番機(零戦)として真珠湾攻撃に参加。米軍機と交戦中に墜落、戦死した。目撃した藤田怡与蔵中尉(同第2小隊)は『真珠湾攻撃の真実』の中で、次のように回想している。

「厚見一飛曹は私の見ているまえでP-36を追撃していたっが、スピードがつきすぎていたのであろう、バックファイヤーを起こしてしまった。(中略)その炎が、それまで尾を引いていた燃料に引火したのだろう、厚見一飛曹の機体は燃え上がり、そしてそのまま落ちていってしまった」。 — 藤田怡与蔵、真珠湾攻撃の真実[要ページ番号]

1942年(昭和17年)4月10日、連合艦隊司令長官山本五十六大将の感状を受け、2階級特進となる。同年10月15日勲七等功五級を受章。

人物

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明朗で機敏だった厚見峻は隊長の飯田房太にかわいがられた。『飯田中佐伝』には以下のように記されている[2]

「隊長飯田大尉は、この若い戦闘機乗りを肉親のごとく愛した。あるとき厚見青年が下士官戦技において、優勝したことがあった。このとき飯田隊長は非常に喜んで、自分の寝衣を着せてだいて寝たことがあった。またある時は、飯田隊長が一人で腕組みをしていることがあった。そこへ厚見一曹が通りかかると、『厚見、歌を教えるからこいよ』と呼びとめられ、歌を教わったこともあった」

1941年9月の初旬ごろに厚見は帰宅した。玄関の「『母さん、ただいま』という声に母が奥から出ると、表座敷の縁べりに厚見がにこにこしながら腰をおろしていた。この時の休暇は短かかった。この休暇中厚見は別に何を語るでもなく、家の周囲を回り歩いて、自分の植えた植木を眺めて回ったり、母の手伝いに時を過ごしたりした。『枇杷咲けり不朽の動樹てし日に』という句を残している[3]

脚注

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  1. ^ 『飯田中佐伝』、p.188
  2. ^ 『飯田中佐伝』、p.190
  3. ^ 『飯田中佐伝』、p.192

参考文献

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  • 飯田中佐顕彰会(編)『飯田中佐伝』飯田中佐顕彰会、1944年
  • 宮沢裕彦(編著)『厚見少尉伝』[要文献特定詳細情報]
  • 防衛庁防衛研究所戦史室(編)『戦史叢書 ハワイ作戦』朝雲新聞社、1967年
  • 太平洋戦争研究会(編著)『真珠湾攻撃の真実』PHP研究所、2009年