原田常雄
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原田 常雄(はらだ つねお、1906年12月21日 - 2000年11月13日[1])は、日本の光源研究者。
略歴
[編集]浜磯太郎の二男として、福岡市に生まれ、原田あやめ(金次郎未亡人)の養子となる[2]。東京大学医学部名誉教授で、日本学士院会員に選ばれた医学者浜清は実弟。1924年福岡県立中学修猷館を経て[3]、1929年東京帝国大学理学部物理学科を卒業[4][1]。
1929年芝浦製作所(現・東芝)に入社。光源及び放電管の研究に従事し、1942年綜合電灯研究所副所長兼電灯第一課長、光学工業研究所所長、1949年マツダ研究所所長、1961年中央研究所次長[1]、1962年5月取締役、1964年5月常務取締役を経て、1966年5月専務取締役に就任。1974年5月顧問となり、日本ニユクリア・フユエル会長に就任する[2]。
この間、1941年に「放電灯の研究」により東京帝国大学工学博士となっている[2]。また、第二次世界大戦時には、陸軍兵器行政本部からの委嘱により、「光源ニ関スル研究」[5]および「暗視装置基礎」[6]の研究を行っている。
受賞歴
[編集]- 電気学術振興賞改良賞(1951) 「放電灯の研究並びに実用化」
著書
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d 『事典 日本の科学者-科学技術を築いた5000人』(日外アソシエーツ、2014年)646頁
- ^ a b c 『人事興信録第31版』(人事興信所、1981年) ハ-179頁
- ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員18頁
- ^ 『東京帝国大学一覧(從大正15年至昭和2年)』(東京帝国大学、1927年)學生生徒姓名491頁
- ^ 三宅宏司「資料紹介 『科学研究者調(甲表)』及び『研究嘱託名簿』 第2次世界大戦における陸軍の科学技術に関与した研究者一覧」(「技術と文明」第13巻第1号、日本産業技術史学会、2002年、73頁)
- ^ 松野誠也「陸軍兵器行政本部「昭和二十年度部外研究事項調」」(「科学史研究」第Ⅲ期第56巻 No.282 2017年7月号、日本科学史学会、2017年、123頁)