及川奥郎
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及川 奥郎 (おいかわ おくろう) | |
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生誕 |
1896年1月1日[1] 日本 岩手県盛岡市 |
死没 | 1970年12月27日(74歳没) |
研究分野 | 天文学 |
研究機関 | 東京天文台 |
主な業績 | 小惑星の発見 |
主な受賞歴 | 帝国学士院賞(1930年) |
プロジェクト:人物伝 |
発見した小惑星 | |
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(1088) 三鷹 | 1927年11月17日 |
(1089) 多摩 | 1927年11月17日 |
(1090) 隅田 | 1928年2月20日 |
(1098) 箱根 | 1928年9月5日 |
(1139) 熱海 | 1929年12月1日 (1 |
(1185) 日光 | 1927年11月17日 |
(1266) 利根 | 1927年1月23日 |
(1584) 富士 | 1927年2月7日 |
(1 …窪川一雄と共同 |
及川 奥郎(おいかわ おくろう、明治29年(1896年)1月1日 - 昭和45年(1970年[2][1][3][注 1])12月27日[1])は、第二次世界大戦前に小惑星を複数発見した日本の天文学者。
岩手県盛岡市出身[1]。大日本帝国海軍海軍大将の及川古志郎は兄[1]。
経歴
[編集]岩手縣立盛岡中學校を卒業[1]。1920年に東京帝国大学理学部天文学科を卒業後、1922年より当時麻布区板倉から北多摩郡三鷹村大澤へ移転を進めていた東京天文台に技手として勤務し、ブラッシャー社製20センチ天体写真儀を使って天体の位置観測に従事した[2][1]。東京天文台の移転に当たってはその経度差を測定している[2][5]。ブラッシャー写真儀による観測で、1927年から1929年にかけて共同発見1つを含む計8つの小惑星[注 2]を発見[4]。1930年には「小惑星の発見」の功績で第20回帝国学士院賞東宮御成婚記念賞を受賞した[1][6]。1932年には、アメリカ合衆国メイン州において、平山清次、野附誠夫と共に皆既日食を観測した[1][7]。
メインベルトの小惑星 (2667) Oikawaは、古在由秀の提案により彼の姓に因んで命名された[4]。
親族
[編集]- 父・及川良吾 - 医師
- 母・スケ(1858年生) - 大島高任長女
- 兄・及川古志郎
- 妹・山口イソ(1902年生) - 山口青邨の妻
- 前妻・アイ(1903年生) - 大矢馬太郎の三女。一子あり[8]。
- 後妻・美恵(1905年生) - 高木貞治の二女
- 子・及川郁郎(1925年生) - 作家。東京天文台官舎に生まれる。明星学園を経て[9]、京都府立医科大学中退。予科在学中、終戦の翌日、赤紙(召集令状)を受け取る。農業、養鶏業、工員を経て無職[10]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 板倉聖宣 監修『事典 日本の科学者: 科学技術を築いた5000人』日外アソシエーツ、2014年、138頁。ISBN 9784816924859。
- ^ a b c 神山幸雄 著、中山茂 編 編『天文学人名辞典』(初版第一刷)恒星社〈現代天文学講座〉、1983年3月25日、255頁。 NCID BN00165458。
- ^ 「及川奥郎」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。コトバンクより2020年10月25日閲覧。
- ^ a b c “NEW NAMES OF MINOR PLANETS”. The MINOR PLANET CIRCULARS/MINOR PLANETS AND COMETS. 小惑星センター (1996年6月1日). 2020年10月23日閲覧。
- ^ 「及川奥郎」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 。コトバンクより2020年10月25日閲覧。
- ^ “恩賜賞・日本学士院賞・日本学士院エジンバラ公賞授賞一覧”, 日本学士院 2020年10月22日閲覧。
- ^ “日食観測隊一覧”, 国立天文台 太陽観測科学プロジェクト 三鷹太陽地上観測 2020年10月22日閲覧。
- ^ 及川古志郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 「新教育」運動の流れと大陸における教育活動・・・戦前の広島高等師範の姿槻木瑞生、上田女子短期大学、2017-03-31
- ^ 慟哭の巡礼者 白石実三 著者紹介紀伊国屋書店