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友寄正人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

友寄 正人(ともよせ まさと、1958年1月26日 - )は、元セントラル・リーグプロ野球審判員沖縄県出身であり、同県出身のセ・リーグ審判員第1号である。(同県出身者では、パ・リーグの砂川恵玄審判が第1号である。)現役を引退した2013年シーズンまでの審判員袖番号は22

来歴・人物

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小禄高校沖縄国際大学を経てビル・キナモン審判学校卒業。

自身には野球のプレイ経験は中学の1年足らずだが、小5の頃から審判に興味を持っており、小禄高校時代に沖縄県野球連盟に審判志願した。大学2年生の時には既に、高校野球沖縄県大会の審判員を任されるほどであった。 大学時代に神原中で2年間監督を務めていた。 本人曰く、少年時代は指揮者になりたかったという。

1978年よりセントラル・リーグ審判員。入局以来関西審判部に所属している。抜擢されるのが早く、1980年には22歳という若さで一軍デビューを果たす。1984年ジュニアオールスターゲームで球審を務め、1987年オールスターゲームに初出場し、1992年には日本シリーズの初舞台を踏み、第3戦の球審を務めた。1994年に審判部主任に、2003年には副部長に昇進。2007年10月20日には、セントラル・リーグクライマックスシリーズ第2ステージ第3戦・巨人-中日戦にて通算2500試合出場を達成、2013年8月4日の巨人-阪神第17回戦で球審を務め、歴代19人目の通算3000試合出場を達成。

オールスターゲームには6回出場(1987年、1990年、1994年、1998年、2006年、2013年。内、1987年第3戦、1994年第1戦、1998年第2戦で球審)、日本シリーズ13回出場(1992年~1994年、1996年~2002年、2004年、2006年、2010年。内、1998年2002年2006年に第1戦、2001年に第2戦、1992年1996年に第3戦、1997年に第4戦、1994年2010年に第5戦、2004年に第7戦の球審)を務めた。

2009年2009 ワールド・ベースボール・クラシックの審判員として、渡田均中村稔良川昌美らと派遣され、2次ラウンド2組の一塁・三塁塁審として4試合に出場した[1][2][3][4]

2009年度より、審判部副部長から審判部部長待遇に昇格。役職名変更により2011年からクルーチーフ、2013年から新設されたシニアクルーチーフとなる。 2014年1月より、井野修に替わり第2代審判長に就任。2022年シーズンをもち退任、後任は森健次郎。現在は日本野球機構(NPB)野球規則委に就任している。

審判スタイル

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  • マスクは、2005年まではスロートガード装着型のものを使用していたが、2006年からはスロートガード一体型のマスクに変更した。
  • ストライク宣告時には、特徴的な振りかぶるようなジェスチャーであったが、後にガッツポーズのようになっている。

審判出場記録

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  • 初出場:1980年7月31日、阪神対中日15回戦(甲子園)、左翼外審。
  • 出場試合数:3025試合
  • オールスター出場:6回(1987年、1990年、1994年、1998年、2006年、2013年)
  • 日本シリーズ出場:13回(1992~1994年、1996~2002年、2004年、2006年、2010年)

(記録は2013年シーズン終了時点)

脚注

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  1. ^ MLB Gameday”. MLB.com. 2023年9月13日閲覧。
  2. ^ MLB Gameday”. MLB.com. 2023年9月13日閲覧。
  3. ^ MLB Gameday”. MLB.com. 2023年9月13日閲覧。
  4. ^ MLB Gameday”. MLB.com. 2023年9月13日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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