古守豊甫
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古守 豊甫 | |
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生誕 |
1920年8月25日[3] 日本・山梨県甲府市[2] |
死没 | 2008年1月8日(87歳没) |
医学関連経歴 | |
職業 | 医師 |
所属 | 古守病院[1] |
専門 | 肺結核医[2] |
研究 | 長寿食を提唱 |
古守 豊甫(こもり とよすけ、1920年8月25日 - 2008年1月8日[3])は、日本の医学者で長寿研究者。
山梨県北都留郡上野原町棡原(現・上野原市)で60年間の食生活と死因の変化を調査研究し[2]、伝統的な食生活が長寿の要因であると結論づけた[4]。
来歴
[編集]1938年(昭和13年)、棡原小学校に代用教員として赴任した[1]。
1943年に、東京医学専門学校(現・東京医科大学)を卒業し、軍医少尉に任官する[1]。翌年、ラバウルに赴任した[1]。
1946年に復員すると、母校の東京医科大学で肺結核の臨床研究を手がける[1]。1947年より国立甲府病院内科勤務となる[1]。
1954年に古守病院を創設した[1]。1959年に東京医科大学より医学博士号を取得する[5]。
1968年に近藤正二とともに棡原地区の高齢者の健康状態の調査を始め[4]、「長寿村」であることを突き止める[6]。
1976年に日本医師会より「最高優功賞」を受賞した[1]。 健康長寿の普及啓発に尽くす[7]。
調査・研究
[編集]穀類などを使用した伝統食が健康長寿につながっていることを突き止め、食と長寿の関係を解明した[8]。
古守は、老人が元気で長生きしているのに対し、それよりも若い大正以降に生まれた世代が生活習慣病などに罹患している点に着目して、高度経済成長期に食の内容を変化させたことが比較的若い世代の健康を損ねていると結論づけた[4]。古守は「人間の寿命はその人が一生の間に食べた野菜の量に比例する」という言葉も残した[4]。
→「上野原市 § 長寿の村」も参照
著作
[編集]- 『南雲詩―ラバウル従軍軍医の手記』金剛出版、1963年
- 『長寿村・棡原』三竜社、1975年(改訂増補版:1976年)
- 『長生きの研究』風濤社、1977年
- 『長寿村の教えるもの 身上不二の桃源郷-棡原観察40年』 日常出版、1979年
- 『長寿村回診記―山梨・棡原のおとしよりたち』社会保険出版社〈老人大学文庫〉、1982年
- 『長寿村・短命化の教訓―医と食からみた棡原の60年』(鷹觜テルとの共著)樹心社、1986年
- 『健康と長寿への道しるべ』風涛社、1988年
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j “欧米の雑穀と古守豊甫博士懐古ー身土不二” (pdf). 植物と人々の博物館 (2016年4月20日). 2023年7月19日閲覧。
- ^ a b c “古守 豊甫(こもり とよすけ)<レファレンス協同データベース”. 国立国会図書館 (2012年3月9日). 2023年8月9日閲覧。
- ^ a b 『現代物故者事典2006~2008』(日外アソシエーツ、2009年)p.268
- ^ a b c d “長寿の里探訪 山梨・棡原 寿命は食べた野菜の量に比例”. 日本食糧新聞. (1996年7月10日) 2023年8月9日閲覧。
- ^ 斜面断層による大葉溝後半部とその周圍病巣の研究 : 基礎と臨床 - 国立国会図書館サーチ(2023年8月9日閲覧)
- ^ “第18回 山梨県(上野原市)せいだのたまじ”. 日清オイリオグループ株式会社 (2011年8月22日). 2023年7月19日閲覧。
- ^ “古守豊甫先輩(S13年卒) 「いまこそ 健やかに暮らす知恵を」” (pdf). 第61回 甲府中学・甲府一高東京同窓会 (2021年10月23日). 2024年11月29日閲覧。
- ^ “長寿村の研究 古守豊甫氏<わたしのまち郷戸案内” (pdf). 山梨県立図書館 (2012年3月9日). 2023年8月9日閲覧。