台場 (福岡藩)
台場[1]とは、防禦の目的をもって大砲[2]を据え付けるための構造物を指す。海岸や河岸の台地など、海防上枢要の地に置かれたものが多い[3]。初期の台場として長崎港入口の7つの台場(古台場)が知られるが、これらは承応3年(1654年)、江戸幕府からの命令で平戸藩により初めて築造されたものである[4][5]。その後200年の時を経、ペリーが浦賀に来航したことで幕府・諸藩の海防意識が高まり、攘夷思想の影響もあいまって日本各地で台場が築造されていった。
福岡藩が関わった台場には、江戸幕府より命じられていた長崎警備のための台場も含まれるが、ここでは幕末に築造された福岡藩領域の台場について述べる。
築造の経緯
[編集]2度目のペリー来航ののち、安政元年(1854年)8月1日、福岡藩は海岸枢要の地、およそ10か所に台場を建設する許可を幕府に願い出た[6]。実地検分は安政2年(1855年)より始まり[7]、安政3年(1856年)には少なくとも一部が完成したと見え、3ヶ所の台場に大砲17門を積みまわした記事が残る[8]。万延元年(1860年)には志賀島・能古島の台場が完成[9]、文久元年(1861年)4月12日には、志賀島・能古島・荒戸山に大砲が設置された[10]。その後、攘夷運動の高まりとともに諸藩で台場築造の動きが加速、福岡藩でも領内各所に台場が設けられ、異国船来襲に備えている。台場が置かれたのは主に、洞海湾の入口、遠賀川河口、そして福岡・博多を守る枢要の地で、その築造にあたっては海底の測量も行ったという[11]。また台場の築造工事と並行して、能古島・志賀島間(約2キロメートル)に大造筏を組並べて海路を塞ぐことが計画され、筏は文久3年(1863年)冬までに完成、有事の際にはいつでも設置できるよう、格納されていた[12]。
福岡城下の台場
[編集]福岡城下に築造された台場のうち波奈・洲崎の台場は特に規模が大きなもので[13]、福岡城防衛という役割を担っていたと考えられている[14]。築造工事は文久3年(1863年)4月7日より始まり[15]、足軽も含め、家中総出で築造にあたり、福岡・博多のみならず、農村・漁村からも人夫、あるいは人夫に支払う賃銭を拠出したという。藩主も自ら見分にあたり、「中々大そうの御事」であったと伝わる[13]。波奈の台場は6月20日に完成したが[15]、これは寛政12年(1800年)から享和2年(1802年)にかけて築造された[16]人工島を一部改修したものである。一方、洲崎の台場は文久3年(1863年)10月に完成、大砲24~25門が据え付けられた[17]。一般に台場の平面形状は不等辺多角形であることが多いが、波奈・洲崎の台場はいずれも、弧を描くように塁線がカーブしているのが特徴であり、いわゆる稜堡式築城とは異なるものである。波奈・洲崎の台場に加え、元治元年(1864年)8月には福岡・博多の海岸5ヵ所に土俵台場が築造された[18]。その後さらに増設されたと見え、幕末頃の「福岡城之図」には福岡・博多の海岸に12か所の小規模な台場が図示される[19]。
台場一覧
[編集]「福岡藩砲台備石火矢覚」による、台場の所在地〈現在地〉および大砲の大きさ(設置数)を以下に示した[20]。
- 名護(古)屋崎〈福岡県北九州市戸畑区中原〉5貫目砲(3)、2貫目砲(2)
- 中ノ島〈北九州市戸畑区、若戸大橋中央部真下付近〉2貫目砲(2)、1貫目砲(2)、0.8貫目砲(1)、0.5貫目砲(1)、
- 若松〈福岡県北九州市若松区本町付近〉0.8貫目砲(3)
- 柏原[山鹿]〈福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿〉2貫目砲(1)、1貫目砲(1)、0.8貫目砲(1)、0.3貫目砲(1)
- 芦屋〈福岡県遠賀郡芦屋町幸町〉2貫目砲(1)、1貫目砲(1)、0.8貫目砲(5)
- 西戸[堂]崎〈福岡市東区西戸崎〉1貫目砲(2)
- 志賀島〈島の南端付近〉2.8貫目砲(1)、2貫目砲(1)、1.5貫目砲(1)、1貫目砲(3)、0.3貫目砲(1)
- 能古島(残島)〈島の北端付近〉5貫目砲(1)、2貫目砲(3)、1.5貫目砲(1)、1貫目砲(1)
- 洲崎〈福岡市中央区天神5丁目〉12貫目砲(1)、5貫目砲(8)、2貫目砲(6)
- 波奈〈福岡市中央区港3丁目〉12貫目砲(1)、5貫目砲(7)、2貫目砲(2)
- 高祖山〈福岡市西区〉1貫目砲(3)、0.3貫目砲(2)
- 加布里〈福岡県糸島市加布里付近〉1貫目砲(2)、0.2貫目砲(1)《筑前国怡土郡内の幕府領》
※1貫目を3.75kgとすると、12貫目=45kg、5貫目=18.75kg、2.8貫目=10.5kg、2貫目=7.5kg、1.5貫目=5.625kg、1貫目=3.75kg、0.8貫目=3kg、0.5貫目=1.875kg、0.3貫目=1.125kg、0.2貫目=0.75kgとなる。250目玉(250目=0.25貫目=0.9375kg)を用いる石火矢の口径は5.45cmであることが知られる[21]から、口径が砲弾の直径に等しく、かつ砲弾の素材・形状が同じと考えるなら、12貫目砲の口径は5.45*(45/0.9375)^(1/3) =19.8cm(小数点第2位以下を四捨五入、以下同)、5貫目砲は口径14.8cm、2.8貫目砲は口径12.2cm、2貫目砲は口径10.9cm、1.5貫目砲は口径9.9cm、1貫目砲は口径8.7cm、0.8貫目砲は口径8.0cm、0.8貫目砲は口径6.9cm、0.3貫目砲は口径5.8cm、0.2貫目砲は口径5.1cmと推定される。
台場築造後
[編集]元治元年(1864年)、長州藩へ異国船が襲来するとの風聞があり、福岡藩でも異国船襲来に備えて対応策を定めた。それによると、玄界灘より異国船が侵入してきた場合、玄界島遠見番より大砲を用いて空砲を2発放ち、志賀島、西戸崎、波奈へと順々に大砲の音で受け継ぎ、福岡城内より大砲・鐘・太鼓で急を知らせ、福岡・博多の寺院が一斉に鐘を撞き、これを聞いた武士は受持ちの台場等へ走り、町人は所定の農村地域へと避難することになっていたという[22]。その後、下関戦争・薩英戦争での長州藩・薩摩藩の敗北を知った福岡藩は、万一の場合には福岡城を放棄することも検討、犬鳴谷(福岡県宮若市)に藩主の別館を急ぎ建設した[23]。しかし攘夷運動は下火となり、台場は次第にその存在意義を失っていく。名護屋崎台場は慶応3年(1867年)11月に廃止となり、大砲は付属品とともに近くの中ノ島に移され、新たに設けられた建物内に格納されたという[24]。
年表
[編集]- 弘化4年(1847年)
- 嘉永元年(1848年) 砲術家福島兵蔵を長崎に派遣、西洋砲術を学ばせる[27]。
- 嘉永6年(1853年)6月3日 ペリーが浦賀に来航する。
- 安政元年(1854年)8月1日 福岡藩、海岸枢要の地およそ10か所に台場を建設する許可を幕府に願い出る[6]。
- 安政2年(1855年)
- 安政3年(1856年)9月3日 西浦台場に設置予定の大砲大小10門を藩の荷船に積み入れ、宮浦に積みまわす。また、大砲17門を相島・大島の台場に積みまわす[8]。
- 安政4年(1857年) この年の冬より、安政5年(1858年)春まで、姫島の海上にて実丸砲術演習が行われる[31]。
- 安政5年(1858年) 藩中より30余人を選び長崎において砲銃術ほかを学ばせる[32]。
- 万延元年(1860年)能古島(荒崎、島の北端付近)・志賀島(弘村と志賀島村の間、島の南端付近)に台場が完成する[9]。
- 文久元年(1861年)4月12日 志賀島・能古島・荒戸山に大砲を設置する[10]。
- 文久3年(1863年)
- 3月12日 中断していた台場予定地の実地検分を再開、志賀島、西浦岬などを見分する[7]。
- 4月5日 黒田長溥、能古島・今津岳・志賀島等の台場を見分する[7]。
- 4月7日 波奈・洲崎台場の築造工事が始まる[15]。
- 4月9日 黒田長溥、博多の浜辺を見分する[33]。
- 4月20日 徳川幕府、5月10日をもっての攘夷決行を約し、諸藩にも伝える。
- 5月27日 前日の下関戦争の報が入り、若松・名護屋崎に築造予定の仮台場に、急遽大砲・弾薬を送る[34]。
- 6月1日 若松浦中ノ島、芦屋柏原の砲台を築き立てる[35]。
- 6月7日 若松浦中ノ島の台場が完成する[36]
- 6月17日 横浜浦・宮浦・姫島の3か浦、洲崎台場築造のための石を献上、運搬す。下浦もこれに続く[37]。
- 6月20日(または23日)、波奈の台場が完成する[38]。
- 6月 能古島・志賀島間に大造筏を組並べて海路を塞ぐことを計画する(筏は同年冬までに完成)[12]。
- 8月18日 加藤司書はじめ諸役人が姪浜小戸山にて台場の予定地を見分する[39]。
- 9月上旬 姪浜小戸山上の台場が完成する[40]。
- 10月 洲崎の台場が完成、大砲24~25門が据え付けられる。荒戸の台場にも大砲15門ばかりが据え付けられる[41]。
- 元治元年(1864年)
- 慶応元年(1865年)11月13日 犬鳴谷別館が完成す[45]。
- 慶応2年(1866年)
- 慶応3年(1867年)11月 名護屋崎台場が廃止され、大砲は近くの中ノ島に移される[24]。
出典
[編集]- ^ 当時、(石火矢)台場・砲台が混用されていたが、ここでは記述の統一を図り、「台場」とした。なお、薩英戦争時の記事では、fortとなっている。
- ^ 当時は一般に「石火矢」と呼称
- ^ 『新装版 日本城郭辞典』p.181
- ^ 『佐賀大学経済論集』第35巻第4号p.219
- ^ “日本財団図書館(電子図書館) 企画展「平戸藩主 松浦家と海展」解説書”. nippon.zaidan.info. 2020年9月27日閲覧。
- ^ a b 『新訂黒田家譜』第7巻上p.229
- ^ a b c d 『見聞略記』p.131
- ^ a b 『見聞略記』p.83
- ^ a b 『見聞略記』p.105
- ^ a b 『新訂黒田家譜』第7巻上p.283
- ^ 『新訂黒田家譜』第6巻上p.63
- ^ a b 『見聞略記』pp.141-42
- ^ a b 『見聞略記』p.136
- ^ 『物語福岡藩史』p.338
- ^ a b c 『新訂黒田家譜』第7巻上p.306
- ^ 『新訂黒田家譜』第5巻p.319
- ^ 『見聞略記』p.163
- ^ a b 『見聞略記』p.190
- ^ 「福岡城之図」
- ^ 『物語福岡藩史』p.339。
- ^ 『江戸の炮術: 継承される武芸』p.216
- ^ a b 『見聞略記』p.198
- ^ 「福岡年代記」元治元年条、『福岡県史』第2巻上冊p.319
- ^ a b 『福岡県史』第2巻上冊p.319
- ^ 「福岡年代記」弘化4年条
- ^ 『新訂黒田家譜』第7巻上p.172
- ^ 『新訂黒田家譜』第6巻上p.59
- ^ 『新修福岡市史』特別編 福岡城 築城から現代までp.158
- ^ 『新訂黒田家譜』第7巻上p.242
- ^ 「福岡年代記」安政2年条
- ^ 『新訂黒田家譜』第6巻上p.65
- ^ 『新訂黒田家譜』第6巻上p.66
- ^ 『見聞略記』p.134
- ^ 『見聞略記』p.139
- ^ 『新訂黒田家譜』第6巻上p.63、
- ^ 「福岡年代記」文久3年条。原文は、「一、六月朔日若松浦中島砲台築立七日成就」であるが、「七日」を「七月」と読み誤った記事が散見される。前述のように中ノ島の台場は「仮台場」である。盛り土をして突き固め、周囲に土俵を積み上げて補強する程度の工事ならば7日程度で完成させることは可能である。
- ^ 『見聞略記』p.143
- ^ 『新訂黒田家譜』第7巻上p.306、『見聞略記』p.140
- ^ 『見聞略記』p.153
- ^ 『見聞略記』p.156
- ^ 『見聞略記』p.162
- ^ 『見聞略記』p.187
- ^ 『見聞略記』p.246
- ^ 「福岡年代記」元治元年条
- ^ 『新訂黒田家譜』第7巻上p.377
- ^ 『新訂黒田家譜』第6巻上p.79、The London and China Telegraph. Vol.9, pp.234-35. [May 4, 1867].
- ^ 『新訂黒田家譜』第6巻上p.79
参考文献
[編集]- 宇田川武久『江戸の炮術: 継承される武芸』(東洋書林、2000年)
- 川添昭二ほか校訂『新訂黒田家譜』第5巻(文献出版、1983年)
- 川添昭二ほか校訂『新訂黒田家譜』第6巻上(文献出版、1983年)
- 川添昭二ほか校訂『新訂黒田家譜』第7巻上(文献出版、1984年)
- 高田茂広校註『見聞略記』(海鳥社、1989年)
- 鳥羽正雄『新装版 日本城郭辞典』(東京堂出版、1995年)
- 長野暹「長崎警備初期の体制と佐賀藩 ―防備体制を中心に―」『佐賀大学経済論集』第35巻第4号(佐賀大学、2002年)
- 安川巌『物語福岡藩史』(文献出版、1985年)
- 『福岡県史』第2巻上冊(福岡県、1963年)
- 「福岡城之図」『福岡市史』別巻(福岡市役所、1968年)所載図
- 「福岡年代記」(岸田家文書、福岡県立図書館筆耕本)