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大森智辯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉井清子から転送)
大森智辯
別名 智辯尊女
個人情報
生誕
吉井清子(よしい きよこ)

(1909-04-01) 1909年4月1日
死没 (1967-02-15) 1967年2月15日(57歳没)
墓所 辯天宗蓬萊山御廟(奈良県五條市
宗教 辯天宗
配偶者 大森智祥
両親 吉井重吉(父)
別名 智辯尊女
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大森 智辯(おおもり ちべん、本名:大森 清子、旧姓:吉井、1909年明治42年)4月1日 - 1967年昭和42年)2月15日)は、日本宗教家辯天宗教祖奈良県吉野町出身[1]

生涯

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奈良県吉野村(現在の吉野町)において、村会議員を務める吉井重吉の長女として生まれた。父の事業失敗のため13歳で紡績女工となり、1928年昭和3年)に上市町(現在の吉野町)の大師堂堂守である大森智祥と結婚。1929年(昭和4年)に夫は養父の死により五條市十輪寺住職を継いだ[2]

1934年(昭和9年)に大辯才天女尊より天啓を受け、十輪寺内に弁才天を祀った。1939年(昭和14年)に加持祈禱師の資格を取得したが治安維持法違反容疑などで2度にわたり留置される。その後、1948年(昭和23年)には夫の大森智祥が第一世管長となって辯天講を結成し、1952年昭和27年)に辯天宗を立宗し智辯が宗祖となる。

1965年(昭和40年)に智辯学園高等学校(現在の智辯学園中学校・高等学校)を開校。同年に高野山真言宗「高野山開創1150年記念大法会」の導師を第一世管長智祥、副導師を宗祖である智辯が勤めた[3]

1967年昭和42年)2月15日、死去。享年57。墓所は奈良県五條市の辯天宗蓬萊山御廟[4]

脚注

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  1. ^ 辯天宗”. 日蓮正宗法華講 妙霑寺支部寺. 2023年8月9日閲覧。
  2. ^ やろと思えばできる”. 高野山真言宗十輪寺. 2023年8月9日閲覧。
  3. ^ 学校紹介”. 智辯学園中学校・高等学校. 2023年8月9日閲覧。
  4. ^ 宗祖さまの御廟 桜満開”. 宗教法人辯天宗. 2023年8月9日閲覧。