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吉村克己

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
よしむら かつみ

吉村 克己
生誕 1919年3月14日
広島県
死没 (1997-07-02) 1997年7月2日(78歳没)
東京都江戸川区
死因 脳梗塞
国籍 日本の旗 日本
出身校 慶應義塾大学経済学部
職業 ジャーナリスト実業家
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吉村 克己(よしむら かつみ、1919年(大正8年)3月14日[1] - 1997年(平成9年)7月2日)は、日本のジャーナリスト実業家産業経済新聞社編集局次長を経て、フジテレビジョン専務取締役、サンケイ出版会長等を歴任した。

来歴・人物

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広島県生まれ。慶應義塾大学経済学部を卒業。軍務の後、1946年に時事新報社へ入社。

1955年に産業経済新聞社に移り、政治部長、編集局次長。1970年にフジテレビへ移籍し、報道局長、取締役報道局長、取締役報道本部長、常務取締役、専務取締役。

1981年にサンケイ出版会長。

1997年7月2日、東京都江戸川区の病院で脳梗塞のため死去。78歳没[2]

池田勇人との関係

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水野成夫時代の産経新聞社は、政治的には池田勇人首相と水野の親密な関係から政権と密着し、他方、池田は新聞社の編集幹部人事などに介入した[3]。その内幕を池田の秘書官だった伊藤昌哉はこう述懐している[3]。「産経の政治部長の交代期が来た。後任が問題であった。池田はこの時、吉村君を推薦した。このことを私はあとで、池田首相自身から聞かされたのである。「ブーちゃん、水野には吉村君を推薦しておいたよ。いいだろうな」。私に異存などあろう訳はない」『吉村克己追悼集』[3]

水野は違う人事を考えていたが、吉村は池田に強い政治記者で、2年後に池田が総裁選佐藤栄作と争った時には、互角の情勢を紙面では無理矢理「池田優勢」と打つなど、公然と池田に肩入れした[4]

著書

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  • 『池田政権・一五七五日―高度成長と共に安保からオリンピックまで』行政問題研究所、1985年。ISBN 4905786436
  • 『ホンネの政治総理の放言・失言 「一億総ざんげ」から「不沈空母」』三天書房、1986年。
  • 『戦後総理の放言・失言』文春文庫、1988年。ISBN 4167467011

追悼集

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  • 吉村克己追悼集刊行委員会編『生涯政治記者吉村克己 吉村克己追悼集』吉村克己追悼集刊行委員会、1998年7月。

脚注

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  1. ^ 『現代物故者事典 1997~1999』p.654
  2. ^ 『日本経済新聞』夕刊 1997年7月3日 17頁
  3. ^ a b c メディアの支配者 上 2009, p. 430.
  4. ^ メディアの支配者 上 2009, p. 431.

参考文献

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  • 『現代物故者事典 1997~1999』日外アソシエーツ、2000年。ISBN 978-4-8169-1595-6
  • 中川一徳『メディアの支配者 上』講談社文庫、2009年6月。ISBN 978-4062763837 

関連項目

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