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吉田宗雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉田 宗雄(よしだ むねお、1912年〈大正元年〉10月10日 - 1944年〈昭和19年〉12月30日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中佐(死後)。

佐賀県小城郡牛津町(のちの小城市)出身。海軍兵学校62期。1944年(昭和19年)12月30日、駆逐艦「呉竹」艦長としてバシー海峡において戦死。

来歴

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禅林寺の長男として生まれる。旧制小城中学校(現佐賀県立小城高校)を経て[1]

  • 1931年(昭和 6年) - 海軍兵学校(第62期)に入学。
  • 1934年(昭和 9年) - 11月海軍兵学校を卒業[2] 命少尉候補生 八雲(装甲巡洋艦)乗組
  • 1935年(昭和10年)7月27日 - 鳳翔(空母)乗組
  • 1936年(昭和11年) 4月1日 - 任海軍少尉 愛宕(重巡洋艦)乗組
  • 1936年(昭和11年)12月1日 - 夕風(駆逐艦)乗組
  • 1937年(昭和12年)7月18日 - 横須賀鎮守府第一特別陸戦隊付
  • 1937年(昭和12年)12月1日 - 任海軍中尉 伊号第59潜水艦乗組
  • 1938年(昭和13年)3月28日 - 呂号第63潜水艦乗
  • 1938年(昭和13年)12月15日 - 第16号掃海艇乗組
  • 1939年(昭和14年)10月20日 - 駒橋(潜水母艦)分隊長
  • 1939年(昭和14年)11月15日 - 任海軍大尉
  • 1940年(昭和15年)12月10日 - 神風(駆逐艦)水雷長兼分隊長
  • 1941年(昭和16年)9月20日 - 漢口方面特別根拠地付
  • 1942年(昭和17年)1月10日 - 漢口警備隊分隊長 隅田(砲艦)艦長代理、熱海(砲艦)艦長代理
  • 1943年(昭和18年)1月15日 - 第24特別根拠地隊付
  • 1943年(昭和18年)1月27日 - 友鶴水雷艇長
  • 1943年(昭和18年)10月20日 - 横須賀鎮守府付
  • 1943年(昭和18年)11月5日 - 命海軍機雷学校高等科学生
  • 1944年(昭和19年)3月10日 - 呉竹(駆逐艦)艦長
  • 1944年(昭和19年)5月10日 - 任海軍少佐
  • 1944年(昭和19年)12月30日 - [3]呉竹、バシー海峡において米潜水艦レザーバックの雷撃を受け沈没。戦死。死後任中佐

出典・脚注

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  1. ^ 小城市の僧侶、父眠る海で平和の祈り”. 佐賀新聞 (2015年7月27日). 2015年8月9日閲覧。
  2. ^ 日本海軍士官総覧
  3. ^ 無二の航跡

参考文献

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  • 日本海軍士官総覧(海軍義済会会員名簿 昭和17年7月1日調)戸高一成監修
  • 無二の航跡(海兵62私史刊行委員会編)