熱海 (砲艦)
表示
艦歴 | |
---|---|
計画 | 1927年度 |
起工 | 1928年11月6日 |
進水 | 1929年3月30日 |
就役 | 1929年6月30日 |
除籍 | 1945年9月30日 |
性能諸元(竣工時) | |
排水量 | 基準:205t 公試:249t |
全長 | 46.3m |
全幅 | 6.79m |
吃水 | 1.13m (公試平均) |
主缶 | ロ号艦本式混焼缶2基 |
主機 | 直立2気筒2段膨張直動式レシプロ2基2軸 1,300hp |
速力 | 16.0ノット |
航続距離 | 1,000海里 / 10.0ノット (石炭31t 重油26t) |
乗員 | 54名 |
兵装 (竣工時) |
短8cm単装高角砲1門 留式7.7mm機銃5挺 |
兵装 (1941) |
8cm単装高角砲1門 留式7.7mm機銃5挺 13mm連装機銃1基 |
熱海(あたみ)は、日本海軍の砲艦。熱海型砲艦の1番艦である。艦名は静岡県の保養地「熱海」にちなんで名づけられた。
艦歴
[編集]三井物産造船部玉工場において建造され、1929年6月30日に竣工、二等砲艦に類別された。
1931年6月1日、砲艦に類別変更。翌年の第一次上海事変において、上海や長江方面の警備に従事した。日中戦争において、上海陸上作戦の支援、長江遡行作戦に加わった。太平洋戦争においては、長江流域の警備に従事した。1944年10月1日に軍艦から除かれ艦艇の砲艦に類別が変更された。
終戦時には航行不能の状態で上海にあり、その後、中華民国に接収され国府海軍の「永平 Yung-Ping」となる。1949年11月29日に郝穴と共に中国人民解放軍海軍に降り「烏江 Wu Jian」と改名され、1960年代に除籍される。
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。階級は就任時のもの。
- 艤装員長
- 今村幸彦 少佐:1929年4月1日[1] -
- 艦長
- 今村幸彦 少佐:不詳 - 1930年12月1日[2]
- 小島秀雄 少佐:1930年12月1日 - 1932年3月10日
- 福田勇 少佐:1932年3月10日[3] - 1932年12月1日[4]
- 木村昌福 中佐:1932年12月1日 - 1934年3月10日
- 門前鼎 中佐:1934年3月10日 - 1935年10月21日
- 加瀬三郎 少佐:1935年10月21日 - 1937年6月1日
- 森圭作 少佐:1937年6月1日[5] - 1937年12月24日[6]
- 千葉次雄 中佐:1937年12月24日[6] - 1938年12月15日[7]
- 隈部博 少佐:1938年12月15日[7] - 1939年10月15日[8]
- 山香哲雄 少佐:1939年10月15日[8] - 1940年10月15日[9]
- 福寿十蔵 大尉:1940年10月15日[9] - 1941年8月20日[10]
- 荒木政臣 少佐:1941年8月20日[10] -
同型艦
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第675号、昭和4年4月2日。
- ^ 『官報』第1179号、昭和5年12月2日。
- ^ 『官報』第1557号、昭和7年3月11日。
- ^ 『官報』第1778号、昭和7年12月2日。
- ^ 『官報』第3122号、昭和12年6月2日。
- ^ a b 「海軍辞令公報 号外 第112号 昭和12年12月27日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073000
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第391号 昭和14年10月16日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076400
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第695号 昭和16年8月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081800
参考資料
[編集]- 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集 航空母艦・水上機母艦』ダイヤモンド社、2005年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]