鎮北 (砲艦)
表示
艦歴 | |
---|---|
発注: | 1875年(光緒元年)両江総督 李宗羲 |
建造所: | アームストロング社エルジック造船所 |
起工: | 1879年 |
進水: | 1879年 |
就役: | 1880年 |
除籍: | 1903年8月21日雑役船編入 |
廃船: | 1906年6月8日 |
所属: | 清国海軍 大日本帝国海軍 |
要目 | |
排水量: | 常備:420t |
全長: | 垂線間長:36.6m |
全幅: | 8.8m |
吃水: | 2.9m |
機関: | 2軸レシプロエンジン2基 420馬力 |
最大速: | 10.0kt |
兵員: | 28名 |
兵装: | 28cm砲1基 12ポンド砲1基 |
その他: | 信号符字:GQHR(1895年〜)[1] |
鎮北(ちんほく、鎭北)は、日本海軍の砲艦。元清国海軍の鎮東型砲艦「鎮北 Chen-Pei」で日清戦争の戦利艦である。
艦歴
[編集]1880年、イギリス、ニューカッスルのアームストロング社エルジック工場で竣工、清国北洋水師に所属した。
日清戦争時の1895年(明治28年)2月17日、威海衛で捕獲され、3月16日に日本艦籍に編入された[2]。その後の日清戦争中には国内警備に従事した。1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、1,000トン未満の砲艦を二等砲艦と定義[3]。鎮北は二等砲艦に類別される[4]。
1903年(明治36年)8月21日に除籍され雑役船に編入、1906年(明治39年)6月8日に廃船となり、9月14日、艦営需品魚形水雷標的となった。1909年(明治42年)11月20日に売却報告。
同型艦
[編集]脚注
[編集]- ^ #信号符字点附 画像1『四月四日 軍艦須磨其他ノ艦舩ヘ點附ノ信號符字 逓信省告示 ○逓信省告示第七十一號 軍艦須磨其他ノ艦船ヘ點附ノ信號符字ハ左ノ如シ 明治二十八年四月四日 逓信大臣渡邊國武 信號符字 艦船名 … GQHR 鎭北 Chin-hoku. …(以下略)…』
- ^ #編入 画像1『三月十六日 捕獲清國軍艦鎮遠以下十艘ヲ帝國軍艦トス 海軍省達 ○海軍省達第十六號 捕獲清國軍艦鎭遠、濟遠、平遠、廣丙、鎭東、鎭西、鎭南、鎭北、鎭中、鎭邊ノ十艘ヲ帝國軍艦ト定メラル 明治二十八年三月十六日 海軍大臣伯爵西郷從道』
- ^ #達明治31年3月(1) 画像14『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道』
- ^ #達明治31年3月(1) 画像15・16『達第三十五號 軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ別紙ノ通リ定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道 軍艦|砲艦|二等|… 鎭南 …(以下略)…|』
参考資料
[編集]- 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集 航空母艦・水上機母艦』ダイヤモンド社、2005年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- アジア歴史資料センター(公式)
- 『公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二十四巻・軍事二・陸軍二・海軍:捕獲清国軍艦鎮遠以下十艘ヲ帝国軍艦トス』。Ref.A01200839500。
- 『公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二十七巻・交通(郵便~船車):軍艦須磨其他ノ艦船ヘ点附ノ信号符字』。Ref.A15113036900。
- 『明治31年 達 完:3月(1)』。Ref.C12070040500。
関連項目
[編集]