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吉田良義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉田 良義
吉田良義
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 天保8年3月9日1837年4月13日[1][注 1]
死没 明治23年(1890年3月4日[1]
改名 登毛丸(幼名)[1]→良義
官位 従三位侍従神祇権大副
従二位子爵
主君 仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 卜部氏嫡流吉田家
父母 父:吉田良熈、母:石川総安の長女[2][3]
直(奥田直央長女)
吉田静子(岩倉具視の五女)
良正清閑寺良貞、鈺子、瀧子
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吉田 良義(よしだ なかよし[2]/よしのり[1])は、幕末公卿吉田良熈の子。明治期の神職華族子爵

経歴

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天保8年(1837年)、京都で吉田良熈の子として誕生[1]嘉永2年12月29日1850年2月10日)、叙爵される[4]。嘉永3年9月28日1850年11月2日)、元服し昇殿を許される[1][3]

安政3年2月5日1856年3月11日)、侍従[1][3]。安政5年(1858年)、父と共に廷臣八十八卿列参事件に加わった[1]慶応元年12月23日1866年2月8日)、従三位に叙され、公卿となった[4]。慶應2年1月2日(1866年2月16日)の白馬節会では外弁を務めた[5]。慶應3年8月26日1867年9月23日)、神祇権大副に任じられた[1][3][6]慶應4年4月2日(1868年4月24日)父の薨去により服解し、同年閏4月23日に除服し、出仕・復任する[3][7]。明治2年、百官の廃止に伴い、律令制下の官職である侍従・神祇権大副を解任された。

明治維新を迎え、家学吉田神道の隆盛を意図して平田銕胤矢野玄道から国学を学んだ[1]。慶応4年2月20日(1868年3月13日)、参与神祇事務局補となる[1][8]。以後、皇学所御用掛、宮中勤番、皇太后宮職勤番などを務めた[1][8]

明治12年(1879年)、吉田神社宮司となる[9]。明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した[10]。同年7月17日日枝神社宮司に就任し[11]、明治20年(1887年3月29日に再任[12]、明治23年(1890年3月4日の帰幽まで務めた[13]。没日付で従二位に叙されている[14]

位階

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出典のないものは公卿補任による[4]

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ または、天保8年3月10日(1837年4月14日)生。[2]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『明治維新人名辞典』, p. 1071.
  2. ^ a b c d e f g h 『平成新修旧華族家系大成』下巻, p. 828.
  3. ^ a b c d e 『公家事典』, p. 869.
  4. ^ a b c 『公卿補任』, p. 567, 孝明天皇慶応元年条.
  5. ^ 『公卿補任』, p. 572, 孝明天皇慶応二年条.
  6. ^ 『公卿補任』, p. 582, 明治天皇慶応三年条.
  7. ^ 『公卿補任』, p. 591, 明治天皇明治元年条.
  8. ^ a b 『百官履歴』上巻, p. 371–372.
  9. ^ 『日本人名大辞典』, p. 2035.
  10. ^ 『官報』第308号, p. 2, 「叙任」.
  11. ^ 『官報』第316号, p. 1, 「叙任」.
  12. ^ 『官報』第1121号, p. 2, 「叙任及辞令」.
  13. ^ 『官報』第2003号, p. 6, 「彙報(官庁事項):宮司死去」.
  14. ^ 『官報』第2001号, p. 4, 「叙任及辞令」.

参考文献

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  • 『百官履歴』上巻、修史局編、日本史籍協会、1928年。 
  • 『公卿補任』第五篇、黒板勝美・國史大系編修會編、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1974年。 
  • 『明治維新人名辞典』日本歴史学会編、吉川弘文館、1981年。 
  • 平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館編、吉川弘文館、1996年。 
  • 『日本人名大辞典』上田正昭他、講談社、2001年。 
  • 『公家事典』橋本政宣編、吉川弘文館、2010年。 

官報

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  • 『官報』第308号、1884年7月9日。 
  • 『官報』第316号、1884年7月18日。 
  • 『官報』第1121号、1887年3月30日。 
  • 『官報』第2001号、1890年3月5日。 
  • 『官報』第2003号、1890年3月7日。 
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
吉田家初代
1884年 - 1890年
次代
吉田良正