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吉興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉興
『大満洲国要人画報』(1934年)
プロフィール
出生: 1879年光緒5年)
死去: 不詳
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区奉天府承徳県
職業: 軍人・政治家
各種表記
繁体字 吉興
簡体字 吉兴
拼音 Jíxìng
ラテン字 Chi-hsing
和名表記: きっこう
発音転記: ジーシン
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吉興(きっこう)は中華民国満州国の軍人・政治家。満洲族愛新覚羅氏で、皇族の出身。北京政府奉天派の軍人となり、後に満州国に参加した。培之

事績

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北京政府時代の吉興

日本に留学し、陸軍士官学校第8期砲兵科を卒業した。帰国後は、張作霖率いる奉天派の軍人として軍歴を重ねる。奉天省督軍公署少校参謀から始まり、1916年民国5年)、鴨渾両江水上警察庁庁長に任命される。1918年(民国7年)、奉天軍総司令部参謀処処長兼第27師参謀長となった。1920年(民国9年)、黒竜江省砲兵団団長に異動する。翌年、吉林省督軍公署参議長兼省長公署参議となる。1924年(民国13年)、東北陸軍第13旅旅長兼延吉鎮守使に任ぜられた。1931年(民国20年)、延吉警備司令となる[1][2][3]

満州事変(九・一八事変)が勃発すると、吉興は煕洽に従って関東軍に与した。1932年大同元年)3月9日に満州国が正式に成立した直後の14日に、吉林省警備司令官に任命されている[4]1934年康徳元年)に陸軍上将位を授与され、同年7月21日、第2軍管区司令官に任命された[5]1941年(康徳8年)3月3日、勇退した張海鵬の後任として侍従武官処武官長に任ぜられる[6]1944年(康徳11年)4月24日、袁金鎧が病気辞任したことに伴い尚書府大臣に転じた[7]

満州国滅亡後、吉興はソ連軍に逮捕、連行された。中華人民共和国成立後の1950年7月31日に、身柄を引き渡され、撫順戦犯管理所に収監されている。1964年12月29日に実施された第5回戦犯特赦において、吉興は釈放された[8][9]。その後の行方は不明である。

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  1. ^ 徐友春主編(2007)、306頁。
  2. ^ 王ほか主編(1996)、344-345頁。
  3. ^ 外務省情報部(1928)、791頁。
  4. ^ 「東省特別区長官に張景恵氏」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月15日。
  5. ^ 郭主編(1990)、1864頁。
  6. ^ 「満州国軍首脳異動」『朝日新聞』昭和16年(1941年)3月4日。
  7. ^ 「吉興上将新任 尚書府大臣更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)4月25日。
  8. ^ 人民日報』1964年12月29日、第1版。なおこの回の特赦では、王陵基李守信らも釈放されている。
  9. ^ 徐主編(2007)、306頁と王ほか主編(1996)、345頁によれば、吉興は1954年に戦犯管理所内で死去したことになる(没年は王ほか主編、獄死は徐友春主編に記述。享年76)。しかし、これは誤りと思われる。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1996年。ISBN 7-80507-413-5 
  • 外務省情報部『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査編纂部、1928年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4 
  満州国
先代
袁金鎧
尚書府大臣
1944年4月 - 1945年8月
次代
(廃止)