吉興
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吉興 | |
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『大満洲国要人画報』(1934年) | |
プロフィール | |
出生: | 1879年(清光緒5年) |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区奉天府承徳県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 吉興 |
簡体字: | 吉兴 |
拼音: | Jíxìng |
ラテン字: | Chi-hsing |
和名表記: | きっこう |
発音転記: | ジーシン |
吉興(きっこう)は中華民国・満州国の軍人・政治家。満洲族愛新覚羅氏で、皇族の出身。北京政府・奉天派の軍人となり、後に満州国に参加した。字は培之。
事績
[編集]日本に留学し、陸軍士官学校第8期砲兵科を卒業した。帰国後は、張作霖率いる奉天派の軍人として軍歴を重ねる。奉天省督軍公署少校参謀から始まり、1916年(民国5年)、鴨渾両江水上警察庁庁長に任命される。1918年(民国7年)、奉天軍総司令部参謀処処長兼第27師参謀長となった。1920年(民国9年)、黒竜江省砲兵団団長に異動する。翌年、吉林省督軍公署参議長兼省長公署参議となる。1924年(民国13年)、東北陸軍第13旅旅長兼延吉鎮守使に任ぜられた。1931年(民国20年)、延吉警備司令となる[1][2][3]。
満州事変(九・一八事変)が勃発すると、吉興は煕洽に従って関東軍に与した。1932年(大同元年)3月9日に満州国が正式に成立した直後の14日に、吉林省警備司令官に任命されている[4]。1934年(康徳元年)に陸軍上将位を授与され、同年7月21日、第2軍管区司令官に任命された[5]。1941年(康徳8年)3月3日、勇退した張海鵬の後任として侍従武官処武官長に任ぜられる[6]。1944年(康徳11年)4月24日、袁金鎧が病気辞任したことに伴い尚書府大臣に転じた[7]。
満州国滅亡後、吉興はソ連軍に逮捕、連行された。中華人民共和国成立後の1950年7月31日に、身柄を引き渡され、撫順戦犯管理所に収監されている。1964年12月29日に実施された第5回戦犯特赦において、吉興は釈放された[8][9]。その後の行方は不明である。
注
[編集]- ^ 徐友春主編(2007)、306頁。
- ^ 王ほか主編(1996)、344-345頁。
- ^ 外務省情報部(1928)、791頁。
- ^ 「東省特別区長官に張景恵氏」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月15日。
- ^ 郭主編(1990)、1864頁。
- ^ 「満州国軍首脳異動」『朝日新聞』昭和16年(1941年)3月4日。
- ^ 「吉興上将新任 尚書府大臣更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)4月25日。
- ^ 『人民日報』1964年12月29日、第1版。なおこの回の特赦では、王陵基や李守信らも釈放されている。
- ^ 徐主編(2007)、306頁と王ほか主編(1996)、345頁によれば、吉興は1954年に戦犯管理所内で死去したことになる(没年は王ほか主編、獄死は徐友春主編に記述。享年76)。しかし、これは誤りと思われる。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1996年。ISBN 7-80507-413-5。
- 外務省情報部『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査編纂部、1928年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。
満州国
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