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吉見佑子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉見 佑子(よしみ ゆうこ、本名:吉見裕子1948年3月22日 - )は音楽評論家作詞家歌手声優大阪府豊中市出身[1]

人物

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親も親戚も杵屋だらけの、いわゆる三味線一家の一人っ子として育ったが、周囲の期待に反して三味線や家元制度に興味を持たない青春時代を送る。

高校在学中に渡辺プロダクションオーディションを受ける。最終オーディションで落選するが、審査員の宮川泰の紹介でジャズボーカルのレッスンに半年間京都まで通い、コマーシャルソングの仕事に関わる。

その後、NHK大阪放送局付属演劇研究所に入所。修了後は、グループ・サウンズフォークのコンサートの司会やラジオ番組のアシスタントの仕事を始め、関西圏限定でDJの仕事を増やしていく。

1970年、活動の場を東京に移す。NHKラジオ第1放送若いこだま』のディスクジョッキーのオーディションを受け合格。自身初の全国放送開始[1]。この時期、短期間ではあるが青二プロダクションに所属し、声優業を行っている。[2]

吉田拓郎が下駄を履いてNHKに来て怒られているのを見たり[1]、フォークシンガーたちのルックスの悪さと裏腹な音楽性のピュアさに心を打たれ[1]、『若いこだま』ではフォークの日を担当し[1]、以降フォーク、ロック、ニューミュージックのアーティストを支援[1]上田正樹を始め、世良公則イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)、RCサクセション長渕剛など、屡々ブレイク前の多くのミュージシャンに注目、ラジオ新聞雑誌、中高生向け学年別雑誌に至るまで、様々なメディアを通じ積極的に紹介した。

1979年、自らが代表となって「シングル・マン再発売実行委員会」を発足させる[1]RCサクセションの3rdアルバム「シングル・マン」の再発売を懇願するため、ポリドール・レコード(以下ポリドール)との折衝を繰り返し、初めは自主制作として300枚限定で都内の3店舗で細々と販売開始。その後、1980年のレコーディングから6年を経てポリドールより正式に再発売された。レコードのには「こんな素晴らしいレコード廃盤にしていて誠に申し訳ありません。」とのポリドールからお詫びが掲載[1]

2000年代に入ると、メディアへの登場は少なくなったが、「テレビブロス」2009年5月30日号の忌野清志郎追悼特集にコメントを寄せた。

自身のブログは、4年間更新されていないが、mixiTwitterにて更新中。

著書

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ディスコグラフィー

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  • 「ふたしかな空」作詞:吉見佑子 作曲:麻田浩
    • (B面)「まわり道」作詞:吉見佑子
  • 「ついてnightナイト」作詞:吉見佑子 作曲・編曲:後藤次利
    • (B面)「メロドラマは純愛で」作詞:吉見佑子 作曲・編曲:後藤次利

作詞

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  • 「ラブソング」歌・補作詞・作曲:上田正樹 作詞:吉見佑子
  • 「その日暮し」歌・補作詞・作曲:上田正樹 作詞:吉見佑子 編曲:星勝
  • Don't Cry My Love」歌・作曲:長渕剛 作詞:長渕剛・吉見佑子

他に吉見の言によると『ルパン三世(TV第1シリーズ)』のエンディング曲『ルパン三世主題歌II』の作詞は吉見である(表記は「東京ムービー企画部」)[3]

出演

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映画・ドラマ

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脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f g h 村田久夫・小島智編「吉見佑子インタビュー」『日本のポピュラー史を語る―時代を映した51人の証言』シンコーミュージック、1999年10月14日、152-155頁。ISBN 4-401-613-40-6 
  2. ^ 第154回 音楽評論家 吉見佑子氏【前半】 | Musicman”. 音楽業界総合情報サイト | Musicman. 2020年12月29日閲覧。
  3. ^ 第154回 音楽評論家 吉見佑子氏【前半】 | Musicman”. 音楽業界総合情報サイト | Musicman. 2020年12月29日閲覧。

外部リンク

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