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名取団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

名取団(なとりだん)は、8世紀初めから10世紀まで日本の陸奥国(後の陸前国名取郡に置かれた軍団である。正確な所在地は不明。9世紀以降は胆沢城鎮守府の守備にあたった。

解説

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軍団制は大宝元年(701年)の大宝令で実施された。初期の軍団の配置は不明だが、その当時陸奥国の国府名取郡郡山遺跡に所在したと推定されること、後述する2軍団時代に名取団が残された事からも、名取団が古くから置かれたと見るのが自然であろう。8世紀は蝦夷との戦争が激化した時代で、軍団兵士も当然それに参加したが、個々の軍団の活動について知られることはない。

9世紀については、文屋綿麻呂によって征夷が一段落してからの沿革がわかる。まず、弘仁2年(811年)に陸奥国の軍団兵士は4000人から2000人に減らされ、玉造団と名取団に1000人ずつ計2000人を残すのみとなった[1]

しかし、弘仁6年(815年)8月に陸奥国は4団4000人を増員し、あわせて6団6000人から6交代制で常時1000人の軍団兵士を駐屯地に置いた[2]。名取団は北の玉造団小田団とともに、胆沢城に400人と玉造塞に100人の守備兵を出したと推測される[3]。これに符合して、胆沢城跡から出土した年代不明の漆紙文書に、柴田郡から徴発した人員の名簿がある。柴田郡は地理的な関係から名取団に属したと推定できるので、名簿は胆沢城に駐屯した名取団のものと考えられる[4]

後に玉造塞の守備は廃止されたがその時期は不明である。陸奥国の軍団は磐城団が増設されて7団7000人となり、承和10年(843年)に1000人を増員して7軍団に割りふった[5]。名取団の増員後の兵力は不明だが、引き続き胆沢城の守備にあたった[6]

後、貞観11年(869年)3月15日に、名取団の大毅刑部本継が柴田郡権大領阿倍陸奥永宗とともに外従五位下を授けられた[7]

10世紀に編まれた延喜式にも陸奥国に7団を置くことが規定されているが、その活動を直接裏付けるような史料はない。11世紀の前九年の役では軍団兵士の活動が見当たらず、この頃までに廃絶したかまったく形骸化したと考えられる。

脚注

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  1. ^ 日本後紀』弘仁2年閏12月辛丑(11日)条には、2000人に減員することのみが明記される。以前に4団があったことは『類聚三代格』にある大同5年(810年)5月11日の太政官符にある。軍団は通常1団千人なので、4団を4000人と解する。残された2000人が玉造団と名取団にあたることは、本文後述の弘仁6年8月23日の太政官符によって判明する。
  2. ^ 類聚三代格』巻第十八。黒板勝美・編『類聚三代格(後編)・弘仁格抄』551-552頁。
  3. ^ 平川南『漆紙文書の研究』
  4. ^ 胆沢城跡第43号文書。平川南『漆紙文書の研究』282頁。
  5. ^ 『続日本後紀』承和10年4月19日条。
  6. ^ 元慶年間(877年から884年)の太政官符に、鎮守府の守備にあたる軍毅が15人、国府守備にあたる軍毅が20人とある。前者を3軍団、後者を磐城団を加えた4軍団と按分すれば5人ずつで割り切れる。平川南『漆紙文書の研究』282頁。
  7. ^ 『日本三代実録』貞観11年3月15日条、『新訂増補国史大系 日本三代実録(前編)』245頁。

参考文献

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  • 平川南『漆紙文書の研究』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4-642-02232-5
  • 黒板勝美・編『新訂増補国史大系 日本後紀』、吉川弘文館、1934年、普及版1975年、ISBN 4-642-00005-4
  • 黒板勝美・編『新訂増補国史大系 類聚三代格(後編)・弘仁格抄』、吉川弘文館、普及版1971年、ISBN 4642000178。初版1934年。NCID BN07435426
  • 黒板勝美・編『新訂増補国史大系 日本三代実録(前編)』、吉川弘文館、普及版1974年。ISBN 4642000089
  • 橋本裕「律令軍団一覧」、『律令軍団制の研究』、吉川弘文館、増補版1990年、ISBN 4-642-02244-9。初出は『続日本紀研究』199号、1978年10月。