名豊ビル
名豊ビル本館 MEIHO BUILDING | |
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2010年12月撮影 | |
情報 | |
用途 | 複合商業施設 |
設計者 | 山下寿郎設計事務所[1][2]・名鉄不動産[1][2] |
構造設計者 | 山下寿郎設計事務所[2]・名鉄不動産[2] |
施工 |
鹿島建設[1][2] 伊藤忠商事[3] |
事業主体 | 名豊ビル[4] |
管理運営 |
名豊ビル[5] ↓ サーラグループ |
構造形式 | 鉄骨鉄筋コンクリート構造[1] |
敷地面積 | 2,557 m² [6] |
建築面積 | 1,911.9 m² [2] |
延床面積 | 19,353.76 m² [2] |
階数 | 地上9階・地下2階・塔屋3階[2] |
高さ | 42.26 m[2] |
着工 | 1967年(昭和42年)6月[1] |
竣工 | 1968年(昭和43年)9月[1] |
開館開所 | 1968年(昭和43年)10月8日[7] |
所在地 |
〒440-0888 愛知県豊橋市駅前大通2-48[1] |
座標 | 北緯34度45分45.54秒 東経137度23分12.79秒 / 北緯34.7626500度 東経137.3868861度座標: 北緯34度45分45.54秒 東経137度23分12.79秒 / 北緯34.7626500度 東経137.3868861度 |
名豊ビル新館 MEIHO BUILDING | |
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情報 | |
用途 | 複合商業施設 |
階数 | 地上12階・地下2階 |
開館開所 | 1974年(昭和49年)[8] |
所在地 | 愛知県豊橋市駅前大通2-46[9] |
名豊ビル(めいほうビル)は、愛知県豊橋市駅前大通にあった複合商業施設。1968年(昭和43年)10月8日に開業し[7]、2017年(平成29年)4月30日に閉鎖された[10]。
歴史
[編集]前史
[編集]戦前のこの場所には豊橋市立狭間尋常小学校があったが、1945年(昭和20年)6月19日から20日の豊橋空襲で甚大な被害を受けたため、狭間小学校は1949年(昭和24年)12月に閉校となって豊橋市立松山小学校に統合された。
戦後に豊橋駅の駅前広場を占拠する形で形成された「闇市」を1945年(昭和20年)12月31日までに駅前大通の両側と神明町に仮移転[11]。 神明町の仮移転先が公園用地であったことから、1949年(昭和24年)8月31日までに再度の移転を豊橋市当局が要求。 その移転先として、龍拈寺境内と狭間小学校跡地が提供されることになり、1950年(昭和25年)12月に狭間小学校跡地の駅前大通に面する形で「大豊百貨店」が開業した[12]。
その「大豊百貨店」を移転するために「牟呂用水」を暗渠化し[13]、その上の萱町橋から大手橋までの間に1965年(昭和40年)に「大豊水上ビル商店街」が建設された[14]。
開業から新館の増設へ
[編集]そして、「大豊百貨店」跡地には東三河地方総合開発の一環として「名豊ビル」の建設が計画され、1968年(昭和43年)10月8日に開業した[7][10]。
この建設の為、名古屋鉄道が50%を出資したほか[15]、豊橋鉄道が10%で他の豊橋財界が40%を出資した[16]「名豊ビル」により建設が進められた[4]。
開業時には、地下1階がバスターミナル関連施設と食品街で、地上1階から4階までと7階が専門店街で、4階と5階にスーパーの西川屋豊橋店(後のユニー)という商業施設が入居[17]。 7階から9階の豊橋グランドホテル[18]や中日文化センター[19]等を擁する複合ビルだった[17]。 なお、中日文化センターは、後に新館の5階と6階に移転している[20]。
当館の開館により、駅前大通の歩行者通行量は、1966年(昭和41年)の約5,700人から約11,100人へ増加した[21]。
はざま公園の地下に建設された豊橋バスターミナルは5バースのバスターミナルで同名の企業が管理運営する形で、1969年(昭和44年)8月5日に「自動車ターミナル」の免許申請を行い[22]、同月31日に開業した[23]。
その結果、駅前大通の歩行者通行量は、駅前大通の歩行者通行量は、1970年(昭和45年)には約22,800人とさらに増加し、1966年(昭和41年)の約4倍となり、1966年(昭和41年)の約14,500人から約13,000人へ減少した広小路を逆転した[21]。
また、1972年(昭和47年)8月に60台収容の駐車場を開設している[24]。
そして、1974年(昭和49年)に新館が開業し[8]、9月に[25]ユニー名豊店が増床[26]。
サーラグループによる買収から閉館・再開発へ
[編集]2004年(平成16年)3月31日に中部ガスの全額出資子会社・中部ガス不動産が名古屋鉄道から株式を取得し、出資比率を2.27%から100%に引き上げて完全子会社化[27]。サーラグループの運営に変わった。 2008年(平成20年)に中部ガス不動産株式会社が名豊ビル株式会社を吸収合併し、中部ガス不動産名豊ビル事業部門の運営に変わった[広報 1]。
2006年(平成18年)9月30日に豊橋バスターミナルが廃止され[28]、月極駐車場となった。[要出典]
2011年(平成23年)6月20日に豊橋グランドホテルが閉館した[29]。
名鉄グループだったことから、サーラグループが受け継いだ後も商業施設では名鉄グループのギフトカードが利用可能であった。[要出典]
2017年(平成29年)3月31日をもって本館地下1階からアクセスできた月極駐車場が営業を終了。[要出典]
名豊ビルは2017年(平成29年)4月30日をもって営業を終了し、48年半の歴史に幕を閉じた[10]。 そして、名豊ビルは2018年(平成30年)に取り壊された。[要出典]
豊橋市は名豊ビル・開発ビル・狭間児童広場跡地で豊橋駅前大通二丁目地区第1種市街地再開発事業が進められ、再開発で出来る施設名が「em CAMPUS」と名付けられた[30]。
当館跡地には、「豊橋駅前大通二丁目地区市街地再開発組合」により地下1階・地上24階建ての「em CAMPUS EAST」が建設され、2021年(令和3年)7月1日に竣工した[31]。 「em CAMPUS EAST」は、1階が商業施設で[31]、2階と3階が図書館などの公共施設[31]、4階と5階がオフィスフロアで[31]、7階から24階までが分譲マンションザ・ハウス豊橋」となった[32]。
施設概要
[編集]本館
[編集]開業時には、地下1階がバスターミナル関連施設と食品街で[17]、地上1階から4階までと7階が専門店街となっていて[17]、豊橋市の地場資本23店舗・名古屋資本24店舗・豊橋以外の三河資本7店舗・名古屋以外の尾張資本2店舗・静岡県資本2店舗・三重県資本1店舗と東海地方の店舗が多くを占めた他に東京資本19店舗と関西資本6店舗と遠方の資本による出店もあった[33]。 ユニー名豊店は1992年(平成4年)8月に閉店し、跡地は貸しホールとして運営されていた。[要出典]
2016年時点では店舗は1階に集約され、地下1階及び2階 - 4階は閉鎖されている。5階にイベントホール、6階にギャラリースペースを設け、各種イベントや展示会などに利用されている。6階には中部ガス等のオフィステナントもある。[要出典]
2011年頃までは地下1階から地上4階までが商業施設となっており、かつてはこれらを総称して「ハイショップ名豊[7]」と呼んでいたが、1997年以降は「い・き・い・きプラザ」と呼ばれていた。[要出典]
新館
[編集]5階と6階に豊橋中日文化センターが入居していた[9]。 1階 - 6階までは、オフィステナントを中心としたゾーンとなっており、名豊ビル事業所を始め、サーラグループの事業室や、時事通信社の豊橋支局等が入居している。[要出典]
はざまビル
[編集]1階は飲食店等、2 - 5階はテナントスペースとなっている。[要出典]
交通アクセス
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g “作品作風 東海の新建築”. 建築と社会 1969年3月号 (日本建築協会) (1969年3月1日).pp47
- ^ a b c d e f g h i 『鉄骨橋梁調査年鑑 1969年度版』 城南書院、1969年。pp440
- ^ “名豊ビル晴れの完工式 経済文化の中心拠点 東三河都市開発に新風”. 東海日日新聞 (東海日日新聞社): p. 1. (1968年10月8日)
- ^ a b 『中部圏の顔』 中部経済新聞社、1967年12月1日。pp412
- ^ “ホテルのあるSC一覧”. ショッピングセンター 1989年7月号 (日本ショッピングセンター協会) (1989年7月1日).pp43
- ^ “昭和四十四年度日本ホテル協会春季総会開催”. ホテルレビュー 1969年3月号 (日本ホテル協会) (1969年3月1日).pp16
- ^ a b c d “名豊ビル花々しく開館 競い合う名店街 目をみはる豊橋っ子”. 東海日日新聞 (東海日日新聞社): p. 3. (1968年10月9日)
- ^ a b 上谷雄一 “若手経営者人国記(29)豊橋の巻”. 商工ジャーナル 1985年10月号 (商工中金経済研究所) (1985年10月).pp36
- ^ a b “巻末資料 全国民間カルチャー事業協議会会員名簿”. カルチャーエイジ 1997年2月号 (全国民間カルチャー事業協議会) (1997年2月).ppIV
- ^ a b c “さようなら名豊ビル”. 東海日日新聞 (東海日日新聞社). (2017年5月1日) 2017年5月2日閲覧。
- ^ 『豊橋市戦災復興誌』 豊橋市、1958年10月17日。pp350
- ^ 『豊橋市戦災復興誌』 豊橋市、1958年10月17日。pp364-365
- ^ “スーパーマーケットがやってくる”. 三河評論 1963年9月号 (月刊三河評論) (1963年9月).pp22
- ^ 『豊橋めぐり』 東三文化会、1982年8月。pp196
- ^ 『年報"系列の研究" 1967年 第1部上場企業編』 経済調査協会、1967年12月1日。pp326
- ^ 花村芳樹 『地方商業の現状と課題-3-豊橋市の場合』 長崎県立国際経済大学論集 26号 (愛知大学経営会計研究所) (1972年10月)。pp103
- ^ a b c d “17億8千万円で結着した 豊橋サンマート問題の"第一ラウンド"”. 中部財界 1981年9月号 (中部財界社) (1981年9月).pp86
- ^ “五〇万都市浜松に結婚式場+レストランを出す 豊橋グランドホテルの「当節ホテル事情」”. 中部財界 1980年8月号 (中部財界社) (1980年8月).pp9
- ^ 『中日新聞三十年史 創業85年の記錄』 中日新聞社、1972年12月。pp113
- ^ “「まさか」と思った読売アカデミーがなんと中日文化センター隣地に進出した豊橋「文化戦争」”. 中部財界 1980年5月号 (中部財界社) (1980年5月).pp85
- ^ a b 花村芳樹 『地方商業の現状と課題-3-豊橋市の場合』 長崎県立国際経済大学論集 26号 (愛知大学経営会計研究所) (1972年10月)。pp109
- ^ “6 旅客自動車”. 運輸審議会半年報 昭和44年7-12月号 (運輸審議会) (1970年).pp115
- ^ 『名古屋鉄道百年史』 名古屋鉄道、1994年6月。pp1027
- ^ 花村芳樹 『地方商業の現状と課題-3-豊橋市の場合』 長崎県立国際経済大学論集 26号 (愛知大学経営会計研究所) (1972年10月)。pp118
- ^ “SC情報”. ショッピングセンター 1974年6月号 (日本ショッピングセンター協会) (1974年6月1日).pp59
- ^ “ようやく大同団結に動くユニーの胸の内 株式上場控えて進撃体制建て直し”. 中部財界 1974年5月号 (中部財界社) (1974年5月).pp77
- ^ 『日本企業のM&Aデータブック 1985-2007 1 統計編・テーマ別M&Aデータ編』 レコフ、2008年2月。pp102
- ^ “豊橋市バスターミナル、9月末の廃止決定”. 東日新聞. (2006年6月1日). オリジナルの2007年3月11日時点におけるアーカイブ。
- ^ “20日に閉館で感謝イベント”. 東日新聞 (東海日日新聞社). (2011年6月14日)
- ^ 酒井博章(2020年11月21日). “豊橋駅前新施設、名称は「em CAMPUS」 来夏先行完成”. 中日新聞 (中日新聞社)
- ^ a b c d “「emCAMPUS EAST」(東棟)+「豊橋市まちなか広場」が完成”. 日刊建設工業新聞 (日刊建設工業新聞社). (2021年10月29日).pp15
- ^ 加藤広宣(2020年11月21日). “豊橋駅前「再開発ビル」施設概要決まる”. 東愛知新聞 (東愛知新聞社)
- ^ 花村芳樹 『地方商業の現状と課題-3-豊橋市の場合』 長崎県立国際経済大学論集 26号 (愛知大学経営会計研究所) (1972年10月)。pp107
広報など1次資料
[編集]参考文献
[編集]- 豊橋百科事典編集委員会『豊橋百科事典』豊橋市、2006年