呂百型潜水艦
呂一〇〇型潜水艦(小型) | |
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艦級概観 | |
艦種 | 二等潜水艦 |
艦名 | |
前級 | |
次級 | |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:525トン 常備:601トン 水中:782トン |
全長 | 60.90m |
全幅 | 6.00m |
吃水 | 3.51m |
機関 | 艦本式24号6型ディーゼル2基2軸 水上:1,000馬力 水中:760馬力 |
速力 | 水上:14.2kt 水中:8.0kt |
航続距離 | 水上:12ktで3,500海里 水中:3ktで60海里 |
燃料 | 重油:50トン |
乗員 | 38名 |
兵装 | 25mm機銃連装1基2挺 魚雷発射管 艦首4門 53cm魚雷8本 |
備考 | 安全潜航深度:75m |
呂百型潜水艦(ろひゃくがたせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。小型潜水艦、潜小、または単に小型とも呼ばれた。1942年から1944年にかけて18隻が竣工したが、全艦戦没した。
概要
[編集]1941年(昭和16年)の戦時計画(マル臨計画)で9隻、更に1942年(昭和17年)のマル急計画で9隻の計18隻が建造された離島防御用の小型の潜水艦。計画番号S45。小型で工期が少なく済み、量産に適していた。ブロック建造により各艦とも1年ほどで完成している。航続距離が短いなど、沿岸で運用することを前提とした設計となっていた。
兵装は小型の艦型のため砲を搭載せず機銃と魚雷のみ、主機はビッカース式ディーゼルを改良したものを搭載した。また冷却機も装備された。
本型は艦型が小型のため凌波性、速力、航続力、居住性などがともに低く、乗員の評判は良くなかったという[1]。
完成後は本来の離島防御には使用されず、中部太平洋の哨戒任務などに従事した。商船または輸送艦を7隻、駆逐艦を1隻撃沈する。しかし1944年(昭和19年)5月から6月にかけて、サイパンやアドミラルティ諸島方面の哨戒で一挙に7隻喪失するなど、すべて大戦中に戦没した。
同型艦
[編集]- 艦名
- 竣工日(建造所) - 沈没日、原因(沈没場所)
- 1942年10月31日竣工(川崎) - 1943年8月10日沈没認定、米側記録なし(ソロモン方面)
- 1943年3月25日竣工(川崎) - 1944年5月31日、米護衛駆逐艦(アドミラルティ北方)
- 1942年12月26日竣工(川崎) - 1944年5月22日、米護衛駆逐艦(アドミラルティ北方)
- 1942年12月16日竣工(呉) - 1943年8月1日沈没認定、米側記録なし(ソロモン方面)
- 1943年4月20日竣工(川崎) - 1944年5月26日、米護衛駆逐艦(アドミラルティ北方)
- 1943年7月19日竣工(川崎) - 1944年6月10日、米駆逐艦(アドミラルティ北方)
- 1943年10月12日竣工(川崎) - 1945年2月12日、米潜水艦(ルソン海峡)
- 1943年11月20日竣工(川崎) - 1944年6月17日、米駆逐艦(サイパン東方)
- 1943年11月30日竣工(川崎) - 1945年1月22日、米駆逐艦(フィリピン西方)
- 1944年1月21日竣工(川崎) - 1944年5月24日、米護衛駆逐艦(アドミラルティ北方)
- 1944年1月31日竣工(川崎) - 1944年6月17日、哨戒機(サイパン東方)
潜水隊の変遷
[編集]呂100型潜水艦は初期10隻が第7潜水戦隊所属となり、中部太平洋での哨戒任務に使用された。1943年(昭和18年)8月20日に5隻がまとめて第51潜水隊を編成して横須賀鎮守府に配備されているが、呂102、呂103、呂107は潜水隊に編入される機会がないまま戦没・行方不明となった。また、呂110、呂111、呂112、呂113、呂114は海大4型、海大5型からなる第六艦隊第8潜水戦隊第30潜水隊に編入されてインド洋での哨戒任務に従事した。第30潜水隊については第30潜水隊の項で記述する。
第五十一潜水隊
[編集]第7潜水戦隊に所属していた呂100・呂101・呂104・呂105・呂106で編成。主にニューギニア方面の哨戒任務などに従事したが、あ号作戦のナ散開線で哨戒中に一挙に5隻を失う(ナ散開線の悲劇)[2]など損耗が激しく、昭和19年8月15日に解隊された。
- 1943年(昭和18年)8月20日:呂100、呂101、呂104、呂105、呂106で編成[3][4]。南東方面艦隊第7潜水戦隊。
- 1943年(昭和18年)9月1日:第51駆逐隊司令加藤良之助大佐[5]。第7潜水戦隊より呂108、呂109を編入[6][7]。
- 1943年(昭和18年)9月15日:サンクリストバル島南方沖で呂101戦没[4][8]。12月1日除籍[8]。
- 1943年(昭和18年)11月25日:ブイン付近で呂100戦没[4][9]。2月5日除籍[9]。
- 1944年(昭和19年)3月1日:第六艦隊に第7潜水戦隊ごと転属。
- 1944年(昭和19年)3月10日:第11潜水戦隊より呂115を編入[10]。
- 1944年(昭和19年)3月25日:解隊した第30潜水隊より呂111、呂112、呂113、呂114を編入。
- 1944年(昭和19年)5月4日:第11潜水戦隊より呂116、呂117を編入[10]。
- 1944年(昭和19年)5月22日:アドミラルティ諸島北方で呂106戦没。8月10日除籍[11]。
- 1944年(昭和19年)5月23日:アドミラルティ諸島北方で呂104戦没[12][13]。8月10日除籍[11]。
- 1944年(昭和19年)5月24日:アドミラルティ諸島北方で呂116戦没[14]。8月10日除籍[11]。
- 1944年(昭和19年)5月26日:アドミラルティ諸島北方で呂108戦没[7][11]。8月10日除籍[11]。
- 1944年(昭和19年)5月31日:アドミラルティ諸島北方で呂105戦没(加藤司令戦死)[15]。8月10日除籍[11]。
- 1944年(昭和19年)6月9日:アドミラルティ諸島北方で呂111戦没[11][16][17]8月10日除籍[11]。
- 1944年(昭和19年)6月17日:サイパン近海で呂114、サイパン南東沖で呂117戦没[18][14]。8月10日呂114、呂117除籍[11]。
- 1944年(昭和19年)6月25日:第51潜水隊司令田上明次大佐。
- 1944年(昭和19年)8月15日:解隊。呂109、呂112は呉潜水戦隊に編入され[16]、呂113、呂115は第8潜水戦隊付属となる。
- (1944年(昭和19年)9月25日:呂109、呂112は第33潜水隊に転出。以降は第33潜水隊の項に譲る。)
- (1945年(昭和20年)2月1日:マニラ南西沖で呂115戦没[19][14]。)
- (1945年(昭和20年)2月12日:ルソン海峡で呂113戦没[16][19]。5月10日除籍[19]。)
- (1945年(昭和20年)2月20日:呂115(書類上在籍)は第34潜水隊に転出。以降は第34潜水隊の項に譲る。)
脚注
[編集]- ^ 『写真 日本の軍艦 第12巻』p220の写真解説より。
- ^ 『深海の勇者たち』152頁
- ^ 昭和18年8月20日付 内令第1708号。
- ^ a b c 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』159頁。
- ^ 昭和18年9月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1203号。
- ^ 昭和18年9月1日付 内令第1816号。
- ^ a b 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』161頁。
- ^ a b 『日本海軍史』第7巻、376-377頁。
- ^ a b 『日本海軍史』第7巻、376頁。
- ^ a b 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』98頁。
- ^ a b c d e f g h i 『日本海軍史』第7巻、378-379頁。
- ^ 『日本海軍史』第7巻、377頁。
- ^ 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』160頁。
- ^ a b c 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』163頁。
- ^ 『艦長たちの軍艦史』457頁、『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』160頁。
- ^ a b c 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』162頁。
- ^ 木俣, 629ページ
- ^ 『日本海軍史』第7巻、379-380頁。
- ^ a b c 『日本海軍史』第7巻、379頁。
参考文献
[編集]- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0462-8
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ判 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年、ISBN 4-8099-0178-5
- 坂本金美『深海の勇者たち』サンケイ出版、1986年。ISBN 4-383-02457-2。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9