呉賛周
呉賛周 | |
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『河北省公報』1939年4月18日 | |
プロフィール | |
出生: | 1885年4月25日 |
死去: |
1949年10月2日 中国北京市 |
出身地: | 清直隷省正定府正定県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 吳贊周 |
簡体字: | 吴赞周 |
拼音: | Wú Zànzhōu |
ラテン字: | Wu Tsan-tshou |
和名表記: | ご さんしゅう |
発音転記: | ウー ザンジョウ |
呉 賛周(ご さんしゅう)は、中華民国の軍人・政治家。北京政府、直隷派の軍人。後に中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会の要人となった。
事績
[編集]初期の活動
[編集]保定講武堂を卒業し、日本へ留学する。陸軍士官学校を卒業した。帰国後は孫伝芳の部下となる。国民政府の北伐を迎撃する際には、安国軍第2軍第6混成旅旅長をつとめている。1926年(民国15年)、孫伝芳の主力部隊が中国国民党の北伐軍に敗北すると、呉賛周は天津へ逃れて下野した。その後、帰郷している[1]。
国民政府時代になると、正定県に駐屯していた国民革命軍が、呉賛周に対して様々な名目で税金徴収や邸宅占用などを行っている。そのため呉は、国民政府に恨みを抱いたという[1]。
盧溝橋事件勃発後の1937年(民国26年)10月、正定県に日本軍が侵攻してくる。呉賛周は、日本の北支那方面軍第1軍司令官・香月清司と同学であった関係から、停戦交渉を行った。その結果、停戦はまとまり、呉は県の維持会会長として、日本軍に協力することになっている[1]。
親日政権下での活動
[編集]同年12月、王克敏が中華民国臨時政府を組織すると、呉賛周もこれに加わった。翌1938年(民国27年)2月に維持会が改組され、正定県政府が成立すると、呉は県知事となっている。同年12月6日、保定道尹署理に昇任している[2][注 1]。1939年(民国28年)3月9日、河北省長・高凌霨が辞職すると、呉は保定道尹在任のまま河北省長を代理する[3]。同年6月23日、呉は保定道尹から昇任し[注 2]、河北省長署理に任命された[4][注 3]。なお臨時政府においては、呉は省長署理のままで終わった[注 4]。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組される。呉賛周は河北省長に重任し[5][注 5]、同年9月12日に華北政務委員会委員に特派・兼任となった[6]。1943年(民国32年)3月3日、呉は河北省省長の兼職を解かれ(後任は杜錫鈞)[7][8][注 6]、華北政務委員会委員専任となる。同年11月11日、華北政務委員会改組により呉は委員からも罷免された[9][注 7]。河北省省長を退いた後、高等警官学校校長に任命され、中将位を授与される。1945年(民国34年)、職を辞し、天津永利化学公司董事長に転じた[1]。
日本敗北後、呉賛周は蔣介石の国民政府に漢奸として逮捕され、1946年(民国35年)7月15日、河北高等法院で無期懲役の判決を受けている[10][11][注 8]。中国人民解放軍による北平接収後も呉は収監され、1949年10月2日、呉賛周は癌のため獄中で死去した。享年65(満64歳)[1]。
注釈
[編集]- ^ 正定県档案局ホームページによると、1938年秋に呉賛周は「冀南道尹公署道尹に就任した」とされているが、『政府公報』上では確認できない。同年9月8日に冀南道尹・任国樑が辞職した(臨時政府令、令字第255号、民国27年9月8日(『政府公報』第34号、民国27年9月12日、臨時政府行政委員会公報処、2頁)、との記述が見られるのみである(後任は王季章)。
- ^ 後任の保定道尹署理には冉杭が任命されている(臨時政府令、令字第430号、民国28年6月23日(『政府公報』第86号、民国28年7月1日、臨時政府行政委員会情報処第四科、3頁)。
- ^ 臨時政府が存続していた期間において、呉賛周が河北省長に正式に就任したかどうかは不明である。
- ^ 臨時政府令、臨字第248号、民国29年3月28日(『政府公報』第140号(最終号)、民国29年3月30日、臨時政府行政委員会情報処第四科、1頁)において、呉賛周は「署理」と明記されている。
- ^ ただし、この際に省長に正式に任命されたのか、それとも署理ないし代理に留まったのかは不明。
- ^ 新聞報道では3月1日付で異動があったとされている(「北支省長更迭 現役将軍を任命」『朝日新聞』(東京)昭和18年(1943年)3月3日、2面)。
- ^ この改組に伴う華北政務委員会委員や総署幹部の罷免については、公報上に記載されていない。
- ^ 正定県档案局ホームページによると、呉賛周に無期懲役の判決を下したのは北平接収後の人民法院としている。
出典
[編集]- ^ a b c d e 正定県档案局ホームページ
- ^ 臨時政府令、令字第305号、民国27年12月6日(『政府公報』第47号、民国27年12月14日、臨時政府行政委員会情報処公報室、3頁)。
- ^ 臨時政府令、令字第337号、民国28年3月9日(『政府公報』第64号、民国28年3月11日、臨時政府行政委員会情報処第四科、2頁)。
- ^ 臨時政府令、令字第429号、民国28年6月23日(『政府公報』第86号、民国28年7月1日、臨時政府行政委員会情報処第四科、1頁)。
- ^ 『支那最近の状勢概觀』(東洋協会調査部調査資料第49輯)、1941年、東洋協会、12-13頁。
- ^ 国民政府令、民国29年9月12日(『華北政務委員会公報』第25-30期合刊、民国29年10月、華北政務委員会政務庁情報局、国府1頁)。
- ^ 華北政務委員会令、会字第958号及び第959号、民国32年3月3日(『華北政務委員会公報』第195・196期合刊、民国32年3月19日、本会2-3頁)。
- ^ 劉ほか編(1995)、1128頁。
- ^ 「華北政務委員会改組」『外交時報』108巻5号通号936号、昭和18年12月1日、外交時報社、70頁。
- ^ 益井(1977)、184頁。
- ^ 張(2012)、417頁。
参考文献
[編集]- 偽河北省省長呉賛周 正定県档案局ホームページ
- 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2001年。ISBN 7-310-01517-7。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 張同楽『華北淪陥区日偽政権研究』三聯書店、2012年。ISBN 978-7-108-03802-9。
- 益井康一『漢奸裁判史 1946-1948』みすず書房、1977年。
中華民国臨時政府
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南京国民政府(汪兆銘政権)
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