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和田正幾

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和田 正幾(わだ まさちか、安政6年8月10日1859年9月6日) - 1933年昭和8年)4月23日)は、日本英語学者青山学院大学教授。

来歴

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1859年9月6日江戸本所割下水に、旧幕臣の浅井束・よきの末っ子として生まれる[1][2]1867年明治維新を機に駿河国に移住する[3]1870年江原素六の世話で旧幕臣の和田茂の養子となる[1]1872年に東京に戻り、1873年12月に開成学校の官費生となり、1876年から東京大学で化学を学ぶ[3]。同年12月、ジョージ・コクランより洗礼を受けて伝道者を目指し、横井時雄山崎為徳とともに退学し、同志社神学校に入学する[1]新島襄の薫陶を受けていたが、自身が伝道者に不向きであると感じ、1ヶ月で中退する[1]

1881年3月、津田仙の斡旋により、元良勇次郎とともに耕教学舎(現・青山学院)の経営や教育に携わる[1][3]1887年市原盛宏と共に仙台の東華学校に招聘され、経営や教育の任に当たり[3]、新島襄に代わって校長代理を務める[4]1890年、論文をアメリカ合衆国ミシガン州にあるアルビオン大学英語: Albion Collegeに送付し、修士(Master of Arts)の学位を取得する[4][5]1892年、東華学校の廃校とともに東京英学校(耕教学舎の後身)に戻る[3]

1896年6月、第9回尋常師範学校尋常中学校高等女学校教員免許検定試験に合格し、尋常中学校・高等女学校英語科の教員免許を取得する[6][7]。同年10月、正則英語学校に出講する[4]。更に、1899年から第一高等学校1903年から日本大学1906年から中央大学1908年から明治大学に出講する[4][8]

1906年の青山学院財団法人の成立に伴い、1907年に校友会の総代を理事会に出席させることが決定され、山田寅之助岡田哲蔵と共に校友会総代に選挙される[9]

1932年12月11日円タクに轢かれて頭部を負傷し、一時危篤に陥るが後に全快する[3][10]1933年4月23日脳溢血により死去、享年75歳[8][11]。墓所は多磨霊園

人物

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  • 「英語界の長老[6]」とされその学識は認められていたが、教壇の人として終始したため、周囲の懇請があったにもかかわらず書物の刊行はしていない[3][5]
  • 趣味は切手・切符の蒐集[4]

著作

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  • 青山学院五十年史編纂委員会編 編「私の囘顧」『青山学院五十年史』青山学院、1932年11月、73-77頁。 

脚注

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  1. ^ a b c d e 九十年史 1965, p. 75.
  2. ^ 松田 1988, p. 1546.
  3. ^ a b c d e f g 村上 1933, p. 23.
  4. ^ a b c d e 学界展望 1933, p. 96.
  5. ^ a b 片々録a 1933, p. 29.
  6. ^ a b 片々録b 1933, p. 31.
  7. ^ 「教員免許状授与」『官報』第3885号、印刷局、1896年6月12日、11頁、NDLJP:2947165/6 
  8. ^ a b 片々録 1933a, p. 29.
  9. ^ 九十年史 1965, p. 307.
  10. ^ 「教授轢かる」『読売新聞』1932年12月12日、7面。
  11. ^ 「和田正幾氏」『朝日新聞』1933年4月24日、11面。

参考文献

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  • 「片々録 和田正幾氏逝く」『英語青年』第69巻第4号、英語青年社、1933年5月15日、29頁。 
  • 村上精一「和田正幾先生逝く」『英語青年』第69巻第5号、英語青年社、1933年6月1日、23頁。 
  • 「片々録 和田正幾翁」『英語青年』第69巻第5号、英語青年社、1933年6月1日、31頁。 
  • 「学界展望 和田正幾氏逝く」『英語研究』第26巻第4号、研究社、1933年7月10日、96頁。 
  • 『青山学院九十年史』青山学院、1965年9月20日。 
  • 松田重夫 著「わだまさちか 和田正幾」、日本キリスト教歴史大事典編集委員会編 編『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年2月20日、1546頁。ISBN 9784764240056 

外部リンク

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