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唐慶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

唐 慶(とう けい、? - 1232年7月24日[1])は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。

概要

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唐慶の出身・来歴については記録がないが、モンゴル軍が初めて華北に侵攻する以前にチンギス・カンに仕え、管軍万戸に任じられた。チンギス・カンによる金朝侵攻が始まると権元帥左監軍に任じられ、太祖22年(1227年)には龍虎衛上将軍の地位を授かり使者として金朝に派遣された[2]

太宗4年(1232年)、第2代皇帝オゴデイは再び唐慶を国信使として金朝に派遣し、金朝皇室の質子を差し出し、歳幣を差し出すよう要求した。これに対して金朝側は曹王訛可哀宗の兄の荊王盤都の子)を派遣し、訛可は官山でオゴデイに謁見した。同年7月、再び開封を訪れた唐慶は金朝皇帝に皇帝号をやめ臣下と称するよう要求したが、金の哀宗はこれを聞き入れず、唐慶を殺害することを臣下と謀った。夜半、金兵は官舎に入って唐慶はじめその弟の唐山禄・唐興禄ら17人を殺害してしまった。金朝の滅亡後、モンゴル軍は唐慶らの遺骸を回収しようとして果たせず、その遺族には金50斤などを与えて厚く報いた[3]

脚注

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  1. ^ 柯劭忞 (中国語). 《新元史‧卷四‧本紀第四‧太宗》. 中華民國. "甲申,金人殺唐慶及從者三十餘人。" 
  2. ^ 『元史』巻152列伝39唐慶伝,「唐慶、不知何許人、事太祖、為管軍万戸。太祖伐金、以慶権元帥左監軍。歳丁亥、賜虎符、授龍虎衛上将軍、使金」
  3. ^ 『元史』巻152列伝39唐慶伝,「壬辰、太宗復以慶為国信使、取金質子、督歳幣、以金曹王来、見帝於官山。七月、使慶再往、令金主黜帝号称臣、金主不聴、慶輒以語侵之。金君臣遂謀害慶、夜半、令兵入館舎、殺慶、及其弟山禄・興禄、並従行者十七人。既滅金、購求慶屍不得、厚恤其家、賜金五十斤、詔官其子、仍計其家人口、給糧以養焉」

参考文献

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  • 元史』巻152列伝39唐慶伝