東平路
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東平路(とうへいろ)は、中国にかつて存在した路。モンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の山東省聊城市一帯に設置された。
モンゴル帝国建国の功臣、ジャライル部族長のムカリを始祖とするムカリ国王家の投下領であった。
歴史
[編集]唐代の鄆州を前身とする。1220年に現地の大軍閥厳実が投降する事でモンゴル帝国の統治下に入り、この時点では後の彰徳路・大名路をも含む州・県54を有する大規模な行政区画であった。
1236年、オゴデイは華北の諸路を諸王・勲臣に分配した(丙申年分撥)が、この時東平一帯は「十投下(ジャライル部の国王ムカリ家当主と郡王タイスン家当主、コンギラト部のアルチ家当主とチグゥ家当主、マングト部当主、ウルウト部当主、イキレス部当主、オングト部当主、クシャウルとジュスク兄弟の総称)」の投下領として分配され、ジャライル部ムカリ国王家に須城県一帯が投下領として分撥された[1][2][3]。
その後、クビライが即位すると、東平路内のジュルチェデイ郡王家の徳州、マングト郡王家の泰安州、イキレス部ブトゥ家の冠州、チグゥ駙馬家の濮州、アラクシ駙馬家の高唐州、クシャウル/ジュスク家の曹州は東平路から分離して中書省直属の州となったが、これは投下領を「路」に準じる「州」として扱う、建国の功臣を始祖とする有力貴族への特別措置であった[4]。結果としてムカリ国王家の投下領とされていた須城県・東阿県・陽穀県・汶上県・寿張県・平陰県のみが「東平路」として残った[5][6]。
管轄県
[編集]東平路には録事司、6県が設置されていた。
6県
[編集]なお、東阿県はムカリの弟タイスン一族の投下領として設定されていたことが『元史』に記録されている[8]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[八年秋月]詔以真定民戸奉太后湯沐、中原諸州民戸分賜諸王・貴戚・斡魯朶……皇子闊端・駙馬赤苦・公主阿剌海・公主果真・国王査剌温・茶合帯・鍛真・蒙古寒札・按赤那顔・圻那顔・火斜・朮思、並于東平府戸内撥賜有差」
- ^ 『元史』巻95志44食貨志3,「慍里答児薛禅。五戸絲、丙申年、分撥泰安州二万戸」
- ^ 松田2010B,54/56頁
- ^ 松田2010A,123-124頁
- ^ 『元史』巻95志44食貨志3,「勲臣木華黎国王。五戸絲、丙申年、分撥東平三万九千一十九戸」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「東平路、下。唐鄆州、又改東平郡、又号天平軍。宋改東平府、隷河南道。金隷山東西路。元太祖十五年、厳実以彰徳・大名・磁・洺・恩・博・濬・滑等戸三十万来帰、以実行台東平、領州県五十四。実没、子忠済為東平路管軍万戸総管、行総管府事、州県如旧。至元五年、以東平為散府。九年、改下路総管府。戸四万四千七百三十一、口五万一百四十七。領司一・県六」
- ^ 『元史』巻58志10地理志1,「[東平路]録事司。県六:須城、下。為東平治所。東阿、中。陽穀、中。汶上、中。寿張、下。平陰。下。至元十一年、以県之辛鎮寨・孝徳等四郷分析他属。明年、改寨為肥城、作中県、隷済寧路、以平陰為下県、仍属東平」
- ^ 『元史』巻95志44食貨3,「帯孫郡王五戸絲、丙申年、分撥東平東阿県一万戸。延祐六年、実有一千六百七十五戸、計絲七百二十斤。江南戸鈔、至元十八年、分撥韶州路楽昌県一万七千戸、計鈔四百二十八錠」
参考文献
[編集]- 松田孝一「オゴデイ・カンの『丙申年分撥』再考(2)」『立命館文学』第619号、2010年