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唐橋豊熈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

唐橋 豊熙(からはし とよひろ、明和7年(1770年)? - 文化11年8月15日1814年9月28日))は、江戸時代中期の人物。唐橋在家の三男。幼名梅丸、通称は民部[1]

人物

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天明3年(1783年)2月2日に従五位下に叙爵されている。同4年(1784年)4月4日、秋月藩黒田氏を継ぐために位記を返上し、江戸の秋月藩邸へと下った。しかし、後に黒田長舒が黒田氏を継いだため、豊熙は江戸から京都へと引き返した。秋月藩は、謝罪の意として豊熙の存命中は合力米を贈り続けた[1]

京都に帰った豊熙は大内小路民部と名を改め、大原重度の娘・いそ(伊楚子)を妻に迎えた。いそとの間には娘が生まれたが、病弱で縁談がなかなかまとまらなかったという[1]

文化11年(1814年)8月15日に43歳で没した[1]

豊熙の死後、いそと娘の生活は困窮を極めたため、いそは豊熙の援助(合力米)を引き続き贈ってほしいと秋月藩に懇願している[1]

系譜

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  • 父:唐橋在家(1729-1791)
  • 母:不詳
  • 妻:いそ - 大原重度の娘
    • 女子

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b c d e 高埜 2007, pp. 60–62.

参考文献 

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  • 松田敬之 著「部屋住のたどった人生」、高埜利彦 編『朝廷をとりまく人びと』吉川弘文館〈身分的周縁と近世社会, 8〉、2007年。ISBN 9784642065641