唐橋豊熈
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唐橋 豊熙(からはし とよひろ、明和7年(1770年)? - 文化11年8月15日(1814年9月28日))は、江戸時代中期の人物。唐橋在家の三男。幼名は梅丸、通称は民部[1]。
人物
[編集]天明3年(1783年)2月2日に従五位下に叙爵されている。同4年(1784年)4月4日、秋月藩の黒田氏を継ぐために位記を返上し、江戸の秋月藩邸へと下った。しかし、後に黒田長舒が黒田氏を継いだため、豊熙は江戸から京都へと引き返した。秋月藩は、謝罪の意として豊熙の存命中は合力米を贈り続けた[1]。
京都に帰った豊熙は大内小路民部と名を改め、大原重度の娘・いそ(伊楚子)を妻に迎えた。いそとの間には娘が生まれたが、病弱で縁談がなかなかまとまらなかったという[1]。
豊熙の死後、いそと娘の生活は困窮を極めたため、いそは豊熙の援助(合力米)を引き続き贈ってほしいと秋月藩に懇願している[1]。
系譜
[編集]- 父:唐橋在家(1729-1791)
- 母:不詳
- 妻:いそ - 大原重度の娘
- 女子
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 松田敬之 著「部屋住のたどった人生」、高埜利彦 編『朝廷をとりまく人びと』吉川弘文館〈身分的周縁と近世社会, 8〉、2007年。ISBN 9784642065641。