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善應寺 (仙台市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
善應寺

善應寺 本堂
所在地 宮城県仙台市宮城野区燕沢二丁目3-1
位置 北緯38度17分2.6秒 東経140度55分16.6秒 / 北緯38.284056度 東経140.921278度 / 38.284056; 140.921278座標: 北緯38度17分2.6秒 東経140度55分16.6秒 / 北緯38.284056度 東経140.921278度 / 38.284056; 140.921278
山号 大雄山
宗旨 臨済宗
宗派 妙心寺派
本尊 十一面観世音菩薩立像
創建年 元禄10年(1697年
開山 通玄法達禅師
開基 伊達綱宗
正式名 大雄山 善應寺
公式サイト 臨機善應
法人番号 5370005000532 ウィキデータを編集
善應寺 (仙台市)の位置(宮城県内)
善應寺 (仙台市)
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十一面観音菩薩立像
善應寺開山堂

善應寺(善応寺、ぜんのうじ)は、宮城県仙台市宮城野区にある臨済宗妙心寺派寺院である。

概要

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仙台藩主第4代伊達綱村は、別荘地であった燕沢の丘陵地約20万坪を、元禄10年(1697年)、 妙心寺派瑞巌寺の通玄法達禅師に喜捨し、ここに岩手県江刺郡黒石村にあった天台宗の慈覚大師(円仁)開基となる遮那王山長谷寺(しゃなおうざんちょうこくじ)の廃寺を移して、初めに甘棠山聖徳寺(かんとうざんしょうとくじ)を建立した。

その後、綱村の父、第3代綱宗を開基として御位牌所とし、綱村の江戸住まいであった品川屋敷を移送して本堂とした。この屋敷は、当時高級品の板ガラス(ギヤマン)を障子戸にした豪奢な造りだったことから、「ギヤマン寺」と呼ばれた。また、綱村の法諡(戒名)が「見性院殿雄山威公大居士」(けんしょういんでんゆうざんいこうだいこじ)であり、経ヶ峯(仙台市青葉区)の伊達家善應殿に遺骨が祀られたことから山号・寺号が加号されて甘棠大雄山聖徳善應寺(かんとうだいゆうざんしょうとくぜんのうじ)となり、現在、大雄山善應寺(だいゆうざんぜんのうじ)と号している。

本尊は慈覚大師(円仁)作とされる十一面観世音菩薩立像(仙台市登録文化財)。元来は仏殿(1981年・昭和56年の大雪にて倒壊)という建物に鎮座されていたが、1958年(昭和33年)の本堂再建の際に遷座した。

また同じ登録文化財として毘沙門天を祀っており、どちらも平安後期の貴重な意匠を現代に伝えている。臨済宗妙心寺派直末中本山の別格寺院であり、明治維新まで代々瑞巌寺からの法を継ぎ、以来「通玄派」と呼ばれる法流の法源地となっている[1]

文化財

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  • 善應寺開山堂-1968年(昭和43年)2月15日、仙台市指定有形文化財(建造物)[2]に指定。善應寺初代通玄禅師の墓所として宝永元年(1704年)に建立。11尺四方の宝形造桟瓦葺で、床面は四半敷の敷瓦、正面に桟唐戸の扉を付け、内部の奥には墓石が置かれ、その上に鷺足(さぎあし)と呼ばれる細長い脚に支えられた簡素な厨子があり,通玄禅師の木像を安置している。また、厨子の上部には伊達綱村筆「鶏足」(けいそく)の扁額が掛けられている。小規模ながら禅宗開山堂として古い形をよく残しており、特に通玄禅師御在世当時、中国から渡ってきた黄檗派(現黄檗宗)の文化的装いも感じられる[1]
  • 善應寺横穴墓群-1968年(昭和43年)2月15日、仙台市指定史跡[2]に指定。善應寺横穴墓群は、飛鳥時代(7世紀後半)から奈良時代(8世紀)にかけて造成された地方豪族の横穴墓である。元は100基以上分布していたと見られるが、現在は25基程となっている。そのうち最大のものは羨道(えんどう)の入口から16メートルにも及び、また遺体を安置する玄室を区切るための玄門の閉鎖設備も発見されているなど、東北では例をみない優れた遺構である。仙台地方の開拓史上重要な遺跡である[1]
  • 十一面観世音菩薩立像-1997年(平成9年)3月25日、仙台市登録有形文化財(彫刻)[2]に登録。
  • 毘沙門天立像-1997年(平成9年)3月25日、仙台市登録有形文化財(彫刻)[2]に登録。
  • 蒙古の碑(燕沢碑

脚注

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  1. ^ a b c 善應寺発行「臨済宗妙心寺派 大雄山善應寺」パンフレット、2016年
  2. ^ a b c d 仙台市ホームページ、2017年12月17日、閲覧

関連項目

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外部リンク

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