喜多村久孝
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 明治39年(1906年) |
別名 | 源八、久左衛門 |
墓所 | 青森県弘前市の貞昌寺 |
主君 | 津軽信順→順承→承昭 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 喜多村氏 |
父母 | 喜多村久盛 |
喜多村 久孝(きたむら ひさたか)は、江戸時代後期の弘前藩士。
生涯
[編集]津軽信順の児小姓より、父・喜多村久盛の家督1200石を継いで、大寄合になった。祖先の北村久左衛門を殺害した村山七左衛門の弟の子孫・毛内有右衛門が七左衛門を名乗ることを申し出ると、すかさず久左衛門を名乗ることを申し出た。藩主・信順は双方の願いを聞き入れ、許可した。文政7年(1824年)から万延元年(1861年)にかけて稽古館第13代惣司を務めた。
慶応4年(1868年)の庄内討伐(秋田戦争)、明治2年の松前征討にも参加した。6月には参政次席となり、明治4年10月下相野村に土着した。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社