喜多村久盛
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政4年(1821年) |
死没 | 文久2年10月20日(1862年12月11日) |
別名 | 監物、富弥 |
墓所 | 青森県弘前市の貞昌寺 |
主君 | 津軽順承→承昭 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 喜多村氏 |
父母 | 喜多村久隆 |
子 | 久孝 |
喜多村 久盛(きたむら ひさもり)は、江戸時代後期の弘前藩士。
生涯
[編集]喜多村久隆の子として誕生。
嘉永6年(1853年)家督1200石を継いだ。大寄合、手廻五番組頭となった。安政3年(1856年)より書院番頭さらに用人を兼ねた。安政6年(1859年)には家老となった。櫛引儀三郎に師事し、学問を修めた。喜多村家には親戚縁故以外との交際を禁止する家法があったが、久盛は優れた人物との交際を望み、求めた。
文久2年(1862年)には高倉盛徳とその弟の西館建哲を家老に推薦している。
参考文献
[編集]- 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社