平等寺 (京都市下京区)
平等寺 | |
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所在地 | 京都府京都市下京区松原通烏丸東入る上る因幡堂町728 |
位置 | 北緯34度59分58.1秒 東経135度45分37.0秒 / 北緯34.999472度 東経135.760278度座標: 北緯34度59分58.1秒 東経135度45分37.0秒 / 北緯34.999472度 東経135.760278度 |
山号 | 福聚山 |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 薬師如来[1](重要文化財) |
創建年 | 長保5年(1003年)[1] |
開基 | 橘行平 |
別称 | 因幡堂、因幡薬師[1] |
札所等 |
洛陽三十三所観音霊場第27番 京都十三仏霊場第7番 京都十二薬師霊場第1番 |
文化財 | 木造薬師如来立像、木造釈迦如来立像、木造如意輪観音坐像(重要文化財) |
法人番号 | 5130005002180 |
平等寺(びょうどうじ)は、京都市下京区因幡堂町にある真言宗智山派の寺院。山号は福聚山。本尊は薬師如来。因幡堂、因幡薬師の名で親しまれている。観音堂(本尊・十一面観音)は洛陽三十三所観音霊場第27番札所。
歴史
[編集]『因幡堂縁起』(『山城名勝志』所収)、『因幡堂縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)などに創建の由来が書かれている。縁起は諸本によって内容に若干の違いがあるが、おおむね次のような話である。大納言・橘好古(たちばなのよしふる)の孫である少将・橘行平(たちばなのゆきひら)は、長徳3年(997年)、因幡国司としての任を終えて京に帰ろうとしていたところ、重い病にかかった。ある夜、行平の夢に貴い僧が現れ、「因幡国の賀露津(かろのつ)の浦(現在の鳥取港)に貴い浮き木がある。それは仏の国(インド)から衆生を救うために流れついたものである。それを引き上げてみよ」と言う。行平が賀露津の漁師に命じて、波間に光るものを引き上げてみると、それは等身の薬師如来の像であった。この薬師像を祀ったところ、行平の病は癒え、京に帰ることができた。この薬師像は天竺(インド)の祇園精舎の四十九院の1つ、東北療病院の本尊であった。行平は薬師像をいずれ京に迎えると約束して因幡を後にしたが、その後、因幡を訪れる機会がないうちに長い歳月が過ぎた。長保5年4月7日(1003年5月10日)、行平の屋敷の戸を叩く者がある。戸を開けてみると、それは因幡からはるばる虚空を飛んでやってきた薬師像であった。行平は高辻烏丸の屋敷に薬師像を祀った。これが因幡薬師平等寺の起源であるという。なお、薬師如来像が引き上げられた年を天徳3年(959年)とし、行平は勅命で因幡国一宮・宇倍神社に参拝し、京に帰ろうとした際に病気になったとする縁起もある。一説に薬師仏は因幡国にあった在地豪族・因幡氏の氏寺の薬師寺(座光寺)に安置されていたといい、行平が京都へ持ち去ったとされる。
南都における寺院勢力の強勢振りを嫌い、平安京内には、官寺である東寺・西寺以外に寺院を建立することは禁止されていた。ただし、貴族の持仏堂は建立が認められていた。本寺もこれに相当する。また六角堂(頂法寺)や革堂(行願寺)のような、町堂(辻堂)の建立も認められていた。因幡堂も、これらと並んで町衆の信仰を集めた町堂の代表格である。
平等寺の寺号は、承安元年(1171年)に高倉天皇によって下賜されたものである。
年間約1,000件の祈祷の多くをがんの平癒を祈るものが占めるなど、近年はがん封じの寺として患者などから熱心な信仰を集めている[1]。
境内
[編集]文化財
[編集]重要文化財
[編集]- 木造薬師如来立像 - 清凉寺の釈迦如来、善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つとされ、康和5年(1103年)以来、度々の火災を免れて今日に至る[2]。
- 木造釈迦如来立像 - 建保元年(1213年)銘。鎌倉期の秀作。
- 木造如意輪観音坐像 - 鎌倉期の秀作。
狂言
[編集]「因幡堂」、「鬼瓦」、「仏師」、「六地蔵」、「金津」など複数の狂言で舞台として登場する。
前後の札所
[編集]所在地
[編集]- 京都市下京区松原通烏丸東入る上る因幡堂町728[3]
交通アクセス
[編集]- 京都市営地下鉄烏丸線「四条駅」より徒歩3分(経路案内)。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』平凡社、1979
- 『角川日本地名大辞典 京都府』角川書店
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛中』駸々堂、1984
外部リンク
[編集]- 因幡堂(平等寺)
- 平等寺(わたしの青秀庵うろちょろ京都散策) - ウェイバックマシン(2007年1月23日アーカイブ分)
- 洛陽三十三所観音巡礼
- 京都十三佛霊場 公式ホームページ