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橘好古

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
橘好古
時代 平安時代中期
生誕 寛平5年(893年
死没 天禄3年正月12日972年1月30日
官位 従三位大納言
主君 醍醐天皇朱雀天皇村上天皇冷泉天皇円融天皇
氏族 橘氏
父母 父:橘公材、母:橘貞樹娘
為政、敏政、輔政清子、等子
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橘 好古(たちばな の よしふる)は、平安時代中期の公卿漢詩人参議橘広相の孫で、右京大夫・橘公材の長男。官位従三位大納言

経歴

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延喜15年(915年文章生に補任。延喜19年(919年美濃権掾に任ぜられ、延長2年(924年)に少内記に遷る。

延長8年(930年朱雀天皇即位に伴って従五位下叙爵し、承平3年(933年宮内少輔に任ぜられる。のちに朱雀朝では、大学頭大蔵大輔右衛門権佐を務め、天慶2年(939年)従五位上に叙せられている。

村上朝に入り、天慶9年(946年)権右少弁に転ずると、天暦4年(950年従四位下、天暦5年(951年)左中弁、天暦8年(954年)右大弁、天暦9年(955年)従四位上と弁官を務めながら昇進する。なお、この間の天暦2年(948年)11月には好古の曹司に群盗が乱入し、雑物や子の為政とその室の衣裳を掠め取ったという[1][2]

天徳2年(958年参議に任ぜられ66歳にして公卿に列す。議政官として左右大弁を兼ね、応和2年(962年正四位下に叙せられている。また、康保元年(964年)11月には好古らの請いによって学館院大学寮の別曹として公認された[3]。康保3年(966年従三位権中納言に昇進すると、康保4年(967年)には中納言と村上朝末に昇進を果たす。

円融朝の安和3年(970年大宰権帥を兼帯し、大宰府に赴任する。天禄2年(971年)11月に大納言に任ぜられ権帥を去るが、平安京へ帰還する前に病を得て、翌天禄3年(972年)正月12日に大宰府にて薨去享年80。最終官位は大納言従三位。

扶桑集』に漢詩作品が採録されている。

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『日本紀略』天暦2年12月10日条
  2. ^ 『貞信公記』天暦2年12月10日条
  3. ^ 『日本紀略』康保元年11月10日条
  4. ^ 『日本紀略』
  5. ^ a b 『公卿補任』
  6. ^ a b c 『系図纂要』

参考文献

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