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どんどん焼け

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

どんどん焼け(どんどんやけ)とは、禁門の変にともない元治元年7月19日1864年8月20日)に京都で発生した火災の通称。元治の大火(げんじの たいか)、鉄砲焼け(てっぽう やけ)ともいう。

手の施しようもなく見る間にどんどん焼け広がったさまから「どんどん焼け」の名が、また市街戦で鉄砲の音が鳴り響いたことから「鉄砲焼け」の名がついた。

概要

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禁門の変にともない、長州藩邸(現在の京都ホテルオークラ)付近と堺町御門付近から出火した。

火の手は北東の風により延焼し、現在の京都御苑の西側から南東方向の広い範囲に広がり、約2万7000世帯を焼失した。

物的被害は焼失町数811町(全町数1459)、焼失戸数27,517軒(全戸数49,414軒)(『甲子雑録』)、人的被害は負傷者744名、死者340名(『連城紀聞』)を記録したが二条城や幕府関係の施設に被害は見られなかった。

なお、禁門の変の戦闘自体による人的被害は長州側が281名、会津・薩摩側が101名であった。

原因

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従来はかわら版の記載にある通り[1] [2]乃美織江ら長州兵が撤退時に河原町の長州藩邸に放火したことが原因とされていたが、西隣の寺町にある本能寺は長州藩邸制圧を狙った薩摩兵の砲撃により真っ先に焼け落ちており、北側の角倉邸、南側の加賀藩邸や対馬藩邸、東側の鴨川対岸が無事に火災を免れた[3]ことから「長州藩邸はすぐに鎮火されたが[3]、敗残兵が逃げ込んだ鷹司邸や民家が福井藩一橋慶喜勢、会津藩薩摩藩兵、新選組らの砲撃により炎上し[4][5]、その火が延焼した」可能性も浮上している。この際、敗残兵を匿っていないにもかかわらず日頃は勤皇派に協力的な施設も砲撃されている[6]。なお鷹司邸は一橋勢が攻撃しているが、永倉新八の回顧録では大槻銀蔵が放火して長州兵を燻り出した新選組の手柄として記載されている[5]

国立歴史民俗博物館館長の宮地正人は「大火は、会津藩が長州残党を狩り出すため不必要におこなった放火が原因だ、との感情が強く」と町民からは評判の悪い会津と新選組が原因扱いされていたと指摘している[7]

その後

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幕府は京都市民の救済のために米を用意し払い下げを行ったが救済としての効果は低く、被災市民は幕府に不満を募らせることとなった。一方、騒乱を起こし敗残兵を匿うことで大火の原因となった長州藩に対しては恨む声よりも同情する声が強まった。京都から逃走中に尼崎で自害した長州藩士山本文之助は残念さんとして祀られ畿内から参詣人が相次いだ。幕府はこうした長州同情論を抑制すべく長州藩の罪状を記した制札を建てて長州藩を批判するとともに市民の長州藩への協力を禁止したが、後にこの制札が三条制札事件の要因となった。

影響

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  • 京都御苑自体は焼失を免れたが、市中が荒廃しきったため、明治天皇東京行幸する動機の1つとなったとされる[要出典]
  • 同時に勤皇派に協力的な勢力への弾圧が行われ東本願寺本能寺など多くの寺院も焼失した。
  • 西本願寺は敗残兵を匿ったがそれを目撃した新選組や会津兵が放火を示唆し恫喝を行った。一橋家が仲介して放火は免れたが、西本願寺は新選組屯所として北集会所や太鼓楼等の提供と移転費用の全額負担を認めさせられた。この新しい新選組屯所は不動堂村へ移転するまでの2年間利用された。
  • 火災は、京都経済を支えてきた町衆に大きな打撃を与えた。町衆主導で行われてきた祇園祭は翌年中止、翌々年には復活するものの規模は縮小された。多くの山鉾が焼失するといった事情のほか、経済的な事情も大きかったものといわれる。その後30年ほどかけてほとんどの山鉾は復興したが、菊水鉾綾傘鉾大船鉾等、復興に非常に長い年月を要したものがある。鷹山に至っては196年後の2022年に復興した[8]。なお、布袋山はいまだ復興がなされていない。
  • 六角獄舎に捕縛されていた囚人たち(平野国臣水郡善之祐古高俊太郎などもそのうちの1人)は、獄舎が類焼し逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない者が多数いたにもかかわらず斬首された(結局獄舎が火災に遭うことはなかった)。

関連項目

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脚注

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  1. ^ 元治元年子七月十九日辰刻頃 河原町二条より出火仕少し鎮方相成 候所已刻より堺町丸太町辺より又候 出火仕候折節北東風つよく相成 丸太町通を寺町へ焼出革堂 残る夷川を河原町にて火留る西ハ 烏丸通を上長者町又下立売は 新町椹木町西洞院丸太町 東ほり川下ハ野原まて焼ぬけ 西堀川通別条なし並本国寺又 西本願寺御堂別条なし東本願寺 ハミなミな焼失不動堂にて火留る 又東は加茂川通り突抜寺町木や 町等ハことことく焼失併祇園 御旅道場ハ別条なく東辺も 同断依て東ハ河原町 上ハ下立売下ハ九条 西ハ堀川まて焼失仕候
  2. ^ 元治元甲子年七月十九日朝 五ツ時川原町二条下ル長州屋敷 焼失同四ツ半時堺町丸太町辺より 出火又烏丸中立売より出火折節 東北風強寺町へ焼出両側とも 錦天神迄此所より南ハ東側無別条 松原より東へ焼込木屋町両側七条 新地橋下不残西ハ東堀川南は 東本願寺七条野はつれ迄上ハ上長者丁 までやけぬけ爰にて火とまる但し本圀寺又ハ本願寺不思議ニ残る 北にても御霊社革堂壱も無別条 大寺之内妙満寺本能寺佛光寺誓願寺其外小堂御社末寺なと 数多にして不相分候火ハ廿一日朝 四ツ時ニ木屋町松原上ル寺辻橋ニて留る 南ハ廿二日朝七条野はづれまで鎮り申候
  3. ^ a b 村松、632頁
  4. ^ 村松、623-625頁。「一橋兵が鷹司邸を焼き討ちし、会津兵が戎川通りの大黒屋に大砲を打ち込み、薩摩兵が烏丸沿いの町家に火を放った」という趣旨の記述がある
  5. ^ a b 永倉、97頁
  6. ^ 高木在中「幕末維新京都町人日記」 五ツ半時風聞。今明六ツ前長州勢嵯峨勢、三条烏丸、山崎勢松原烏丸通、御所様取囲、一戦ニ及居候由也。会津、藤堂、四ツ前、西御奉行瀧川播磨守様キゴミニ而五六十人同勢ニ而大宮下江御下り相成、四ツ時讃州高松城主、先陣中大将左右陣後陣凡五百人斗勢揃致、大宮通上江御通行、誠ニ以古今大混雑ニ相成候。五ツ前長州屋敷焼ル。四ツ時竹田口与思しき辺焼。然ル所伏見長州屋敷御座候由也。誠ニ以雷鳴天をひる返ス歟ト数百挺ノ鉄炮、大炮之音聞る所、追ゝ戦ひニ相成、風聞繁く相成候所、御所内鷹司御殿へ会津勢ヨリ大炮打懸ケ、一時ニ焼失、夫ヨリ堺町御門、蛤御門、中立売御門ニ而大戦ひ之由、更大名方御勢夫ゝ皆御加勢ニ付、長州打まけ逃去候故、会津勢ヨリ小紅屋へ大炮三挺斗打込、一時ニ焼家内拾七八人死。然ル所承り合候へは、丸田町寺丁西入丁ニ而、越前家老同勢弐百人斗、甲冑ニ而来り候所、長州勢ト出合、大戦越前勢打まけ多分死、夫ヨリ堺町御門会津、彦根勢戦互ニ大炮会津ヨリ打掛、長州勢逃去中立売新町辺ニ而大戦ニ相成候。一橋勢、讃岐勢、薩摩勢ヨリ大炮ニ而打〆られ、長州勢散ゝニ打まけ逃去、夫ヨリ長州落ち武者町家へ潜伏致候哉与言、烏丸室町之間ニ而焼出ル、夫ヨリ南ハ仏光寺迄、西ハ西洞院東側、東ハ寺町迄焼。其音人民泣さけふ声、大炮打ニ而大混雑之次第、誠ニ天地震動ス。十九日夜七ツ時前ヨリ町ゝヨリ出火を鎮防方致、大方廿日朝六ツ半時ニ火止、先ゝ安堵致居候所、五ツ時比又ゝ所ゝ大炮打掛焼立来ル、会津之士大砲壱丁ニ十人斗ツヽ付、夫ゝ江廻り焼立ル。彦根之士同様焼立廻ル。焼残り之町家又ゝ取物も不取敢上を下へト震動ス。東本願寺七ツ時ニ焼失。薩摩勢、嵯峨天龍寺虚空蔵本堂、其外三軒茶屋之辺一時ニ大炮ニ而焼払、八ツ時乍恐禁裏様紫震殿迄御出立ニ相成、御立のきも有之由之所、時宮様段ゝ御差止之由ニ而御立退ニも相成不申、難有仕合ニ御座候
  7. ^ 宮地、80頁
  8. ^ 京都・祇園祭「鷹山」 196年ぶり復帰にかけた囃子方の原風景”. 朝日新聞DIGITAL (2022年6月25日). 2022年7月26日閲覧。

参考文献

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参考・外部リンク

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