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団忠正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
団忠正
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正10年6月2日1582年6月21日
別名 忠直、忠春、景春、梶原忠正、通称:平八郎、平八
主君 織田信長信忠
氏族 梶原氏団氏
佐渡長重[1]
市兵衛
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団 忠正(だん ただまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名織田氏の家臣。美濃国岩村城主。諱は複数伝わる。

略歴

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幼少期の事については殆ど分かっていない。もともとは梶原姓を名乗っており、梶原氏の末裔を自称するが真偽の程は定かでない。仮に梶原氏の末裔とすれば、本姓は平氏となる。同時期に織田氏に仕えていた梶原景久とは親子、もしくは親戚関係とも言われる。

織田家に出仕しだした正確な時期は不明であるが、はじめは織田信長馬廻だったようで史料における初見は天正6年(1578年4月20日村井専次宅での夕飯の席に、信長に従って同席した事である[2]。しかしながら天正8年(1580年7月25日吉田兼見織田信忠を訪ねた際にはその取次を忠正が行っており[3]、この頃には信忠側近の立場へと変わっている事が窺える。

同年11月27日には、日比野弥次郎・日比野孫一に陣夫銭の件で棚橋彦一郎の違乱に対して、和田八郎に命じて1貫500文を納めるようにと決まったので異議申し立てをしないようにせよという内容の書状を発給している[4]。この書状は織田信長御朱印の旨で裁許するようにと書かれているが日比野は尾張、棚橋は美濃の人物でいずれも信忠領地の武将で、この訴訟の仲裁も信忠側近としての仕事の一環であると考えられる[5]

天正10年(1582年)の甲州征伐において、森長可と共に先鋒部隊に抜擢されると木曽口より武田領に侵攻し飯田城高遠城などを次々と落とした。この際に戦意が勝りすぎて叱責される事もあったが、その後の甲斐国上野国侵攻でも長可と共に先鋒部隊を務め功を挙げ、戦後の論功恩賞により河尻秀隆の旧領である岩村城を与えられ岩村5万石の城持大名へと昇格を果たす[6]。同年4月5日に信濃で発生した芋川親正の一揆では包囲された稲葉貞通救援の為に信忠の命を受けて信濃へと出陣している。

以後も信忠の隷下に属し、同年の本能寺の変の際も信忠と共に二条新御所に籠もって明智光秀の軍勢と戦い討死した。

死後、岩村城は信濃海津より撤退してきた森長可が接収し、森氏の支配するところとなった。

人物

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信濃の高遠城攻めの際、信長の「前進を控えるように」という通達を無視して森長可と共に兵を前進させ鉄砲を撃ちかける等の軍規違反を犯し、これを信忠に付けられていた河尻秀隆に報告されて信長より叱責されている。この9日後にも同じように長可と共に、勝手に兵を前進させて戦闘に及び、叱責されるなど非常に血気盛んな人物であった[7]

また、生年は不詳であるが、この二度の軍令違反についてのやりとりの中で信長は長可と忠正を「わかきもの」と称しており、永禄元年(1558年)生まれの長可と同視できる若年であったと思われる。

また、森成利とも個人的に交友が有り書状がいくらか現存している。

脚注

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  1. ^ 徳島大学附属図書館蔵『蜂須賀家家臣成立書并系図』「佐渡左近」系図
  2. ^ 『宗及記』
  3. ^ 『兼見卿記』
  4. ^ 『日比野文書』
  5. ^ 『織田信長家臣人名辞典第2版』
  6. ^ 『信長公記』
  7. ^ 河尻と信長のやり取りを示す2通の『織田信長黒印状』に詳しい。

出典

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  • 谷口, 克広『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年。ISBN 4642027432