園田晟之助
園田 晟之助(そのだ せいのすけ、1895年(明治28年)12月20日[1][2] - 1942年(昭和17年)4月6日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]兵庫県出身[1][2][3]。鳳鳴義塾塾長・園田定太郎の長男として生まれる[1]。鳳鳴中学校(現兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる[1][4]。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業した[1][2][3]。
1925年(大正14年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、陸軍兵器本廠付兼整備局課員、参謀本部付(支那研究員)、整備局課員、軍務局課員を務め、1932年(昭和7年)8月、歩兵少佐に進級し整備局課員・参謀本部員を兼務した[1]。同月、資源局事務官に転じ、参謀本部員を経て、1935年(昭和10年)1月、関東軍司令部付兼満州国大使館付武官補佐官に就任[1]。1936年(昭和11年)6月、軍務局課員(軍務課)に転じ、同年8月、歩兵中佐に昇進[1]。1937年(昭和12年)11月、東京湾要塞参謀に就任[1][3]。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進し兵器局機械課長に就任した[1][3]。1939年(昭和14年)3月、商工省燃料局総務部企画課長となり、同年9月、参謀本部支那課長に就任した[1][3]。
1941年(昭和16年)3月、戦車第7連隊長に発令され中国戦線に出征[1][2][3]。その後、太平洋戦争に出征しフィリピンの戦いに参戦[2]。1942年4月、バターン半島攻略時に戦死し陸軍少将に進んだ[1][2][3]。
栄典
[編集]- 外国勲章佩用允許
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。