園部潜
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園部 潜(そのべ ひそむ、1882年(明治15年)12月 - 1945年(昭和20年))は、日本の銀行家。安田保善社理事や、安田銀行社長を務めた。
人物・来歴
[編集]三重県出身。1904年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、日本銀行入行。1916年から3年間アメリカ合衆国で銀行業の視察を行ったのち、日本銀行検査役、日本銀行調査役、日本銀行松江支店長等を経て[1]、日本銀行での上司であった結城豊太郎安田保善社専務理事兼安田銀行副頭取がいた安田保善社に転じ、1923年安田保善社調査部長に就任[2]。
同年安田保善社理財部長。1924年安田保善社理財部長兼銀行部長[2]。安田銀行常務監査役を経て、1926年安田銀行常務取締役[3]。1940年からは森広蔵の後任として安田銀行副頭取を務め、事業金融への進出を行うなどした[4]。1941年安田保善社理事に昇格[5]。1942年には安田銀行で社長制が新設され安田銀行社長に就任した[6]。1945年死去[7]。
脚注
[編集]- ^ 「園部潛 (男性)」渋沢社史データベース(名古屋大学)
- ^ a b 小早川洋一「安田善次郎死後の安田財閥の再編成 - 結城・森改革の過程と意義について -」『経営情報学部論集』第1巻第1号、中部大学経営情報学部、1985年1月、27-42頁、ISSN 0910-8874、CRID 1050845763477988992。
- ^ 「(株)安田銀行『安田銀行六十年誌』(1940.09)」渋沢社史データベース
- ^ 迎由理男「戦時期の安田銀行」『北九州市立大学商経論集』第41巻1・2・3、北九州市立大学経済学会、2006年2月、1-42頁、ISSN 1347-2623、CRID 1050845763179325824。
- ^ 「安田保善社『安田保善社とその関係事業史』(1974.06)」渋沢社史データベース
- ^ 「(株)富士銀行『富士銀行百年史. 別巻』(1982.03)」渋沢社史データベース
- ^ 「新収蔵作品 : 武石弘三郎《裸婦浮彫》、北村四海《女性立像》について」国立国会図書館デジタルコレクション
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