土御門通行
時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 建仁2年(1202年) |
死没 | 文永7年6月30日(1270年7月19日) |
改名 | 通継(初名)→通行 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇 |
氏族 | 村上源氏久我流土御門家 |
父母 | 父:源通親、母:承明門院尾張 |
兄弟 |
源通宗、堀川通具、久我通光、定通、中院通方、道元?、通行、定親、親縁、雲快、親子 異父姉:在子 養兄弟:証空、大江親広 |
妻 | 源師季の娘 |
子 | 通持 |
土御門 通行(つちみかど みちゆき)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。内大臣・源通親の六男。官位は正二位・権大納言。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
建仁4年(1204年)1月5日、叙爵。建保4年(1216年)1月5日、従五位上に昇叙[1]。建保5年(1217年)12月12日、侍従に任ぜられる。安貞元年(1227年)12月25日、左少将に任ぜられる[2]。同年2月1日、上総権介を兼ねる。安貞3年(1229年)4月13日、正五位下に昇叙。寛喜2年(1230年)1月5日、従四位下に昇叙。同月24日、改めて左少将に任ぜられる。貞永2年(1233年)1月24日、能登介を兼ねる。文暦2年(1235年)1月23日、従四位上に昇叙。嘉禎3年(1237年)1月24日、正四位下に昇叙。嘉禎4年(1238年)2月6日、左中将に転任。仁治2年(1241年)3月1日、三河介を兼ねる。仁治3年(1242年)3月7日、蔵人頭に補される。
仁治3年(1242年)12月25日、参議に任ぜられる。左中将は元の如し。仁治4年(1243年)2月2日、遠江権守を兼ねる。同年閏7月27日、従三位に昇叙。宝治2年(1248年)1月13日、讃岐権守を兼ねる。同年7月17日、正三位に昇叙。建長2年(1250年)1月13日、権中納言に任ぜられ、帯剣を許される。建長3年(1251年)1月5日、従二位に昇叙。同月22日、右衛門督を兼ね、検非違使別当に補される。建長4年(1252年)12月8日、右衛門督と検非違使別当を辞した。建長6年(1254年)12月25日、権大納言に任ぜられ正二位に昇叙。正嘉3年(1259年)4月17日、権大納言を辞した[3]。文永7年(1270年)6月30日、薨去[4]。享年69。