坂本重安
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正16年(1588年) |
死没 | 寛永21年6月7日(1644年7月10日) |
別名 | 久五郎、小左衛門(通称) |
戒名 | 日住 |
墓所 | 東京都港区北青山の持法寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 坂本氏 |
父母 | 父:坂本貞吉 母:折井次昌の娘 |
兄弟 | 重安、貞俊 |
妻 |
妻:小沢忠重の娘 後妻:阿倍重真の娘 |
子 |
養子:重治 実子:貞政 |
生涯
[編集]坂本家は甲斐の戦国大名・武田家の遺臣で、徳川家康の関東入部の際、祖父の貞次が相模国高座郡内(現在の神奈川県大和市周辺)で370石余の知行地を受けた。
慶長7年(1602年)、15歳の時に徳川秀忠に仕えて大番となる[1]。2度の大坂の陣に従軍し、大坂落城の際に首二級をとる[1]。寛永10年(1633年)2月7日、常陸国信太郡内に200石の加増を受け、570余石となる[1]。
なお、異母弟の貞俊(権十郎)も秀忠に大番として仕えて別家(200石)を立て、大坂の陣でも戦功があったが[1]、徳川忠長附属となったため、忠長が改易された際に浪人となり、寛永10年(1633年)に幕府から10人扶持を与えられている[1]。病のため、兄の重安の領地である深見村に閑居している[1]。
寛永21年(1644年)没、法名は法常院殿日住居士[要出典]。はじめ高輪の長応寺に葬り、のち青山の持法寺に改葬した[1]。
家督は養子の重治(重治の母は阿倍重真の娘[1])が継いでおり、重治はのちに大目付・寺社奉行など幕府の要職を務め、短期間ながら大名となった(深見藩)。なお、実子として側室(「某氏」)所生の貞政がおり[2]、重治が270石を分知して別家を立てている[1][2]。
備考
[編集]- 『日本城郭大系』には、大和市深見字坊之窪付近の「坂本重安屋敷」が挙げられている。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.794、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.80。
- ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.797、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.83。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.794-795、『新訂寛政重修諸家譜 第三』pp.80-81。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.795、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.81。
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第三』(続群書類従完成会)