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垣内己山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
垣内 己山
『間窓随筆』口絵
時代 江戸時代後期
生誕 天明3年(1783年
死没 天保8年6月11日1837年7月13日
別名 成章(諱)、君豹(字)、全庵(通称)[1]
墓所 栖原施無畏寺
氏族 藤原菊池氏垣内全庵家
父母 垣内松渓、町
栗山氏
垣内白峰、熊皐、古田咏処
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垣内 己山(かきうち きざん)は江戸時代後期の医師、漢詩人。紀伊国湯浅村古碧吟社盟主。

生涯

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天明3年(1783年)紀伊国有田郡栖原村に[2]医師垣内亨斎の長男として生まれた[3]。幼くして紀州藩督学伊藤海嶠に経史を学んだ[1]京都に出て和田東郭・賀川子玄に医術を学び[4]、特に産科に長じた[1]

帰郷後、家業を継ぐ傍ら詩文に興じた[1]。当時の南紀文壇が古学的注釈学に終止する中、一人南宋范成大楊万里を模範とした清新派漢詩に打ち込んだ[1]菊池渓琴湯浅村・栖原村の同人を集めて古碧吟社を結成し、盟主に就任した[1]野呂松盧を師とし[2]、当初月3,4回同人宅の持ち回りで詩会を開催したが、各家庭に迷惑がかかったため[5]湯浅村島之内旅館広久を本拠に定め、古碧楼と号した[6]

和歌山盛唐詩を模範とした原田霞裳とも親交を結び、「南北の両雄」と並び称された[1]。霞裳の死後、その遺稿を整理し、天保4年(1833年)8月千鐘房から『漱芳園遺稿』を出版した[7]

晩年銚子に移った[2]天保8年(1837年)6月11日疫病により55歳で死去し[1]施無畏寺に葬られた[3]文久元年(1861年)6月石田冷雲撰書による墓碑が建てられた[3]

著書

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  • 「間窓偶筆」 - 明治19年(1886年)序。浅田栗園閲。銚子済生病院林渓城の求めで刊行された。大坂・紀州・総州で経験した症例や、文政5年(1822年)のコレラ流行について記す[8][9]
  • 「杏林摘葩」[1]
  • 「閑窓筆語」[1]
  • 「詩文稿」[1]
  • 「医談雑記」[10]
  • 「己山遺稿」[11]
  • 「梧窓随筆」[12]

親族

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  • 祖父:垣内松渓(鳳儀、全庵)
  • 父:垣内亨斎(達、全庵) - 有田郡宮崎城主石井兵庫久方子孫森川氏の子。三木三庵に医術を学び、種痘に通じた。天保3年(1832年)9月30日病没[13]
  • 母:町(妙照)[3] - 松渓と後妻野尻氏の次女[13]。琴・書道を嗜んだ。嘉永4年(1851年)9月24日89歳で病没[3]
  • 次妹 - 古田氏に嫁いだ[3]
    • 甥:古田致恭[3]
  • 三妹 - 藤白鈴木氏に嫁いだ[3]
  • 妻:栗山氏[3]
    • 長男:垣内白峰 - 詩に長じた[1]
    • 次男:垣内熊皐 - 朗詠に長じた[1]
    • 四男:古田咏処 - 俳諧・書画・音楽に長じた[1]
    • 子:垣内梅嶺 - 名は栄、字は君芳。古碧吟社同人[14]
    • 娘4人[13]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 菊池 1918, p. 25.
  2. ^ a b c 貴志 1934, p. 5.
  3. ^ a b c d e f g h i 湯浅町 1967, p. 959.
  4. ^ 林 1886.
  5. ^ 松下 1960, p. 85.
  6. ^ 湯浅町 1967, pp. 890–891.
  7. ^ 漱芳園遺稿・楓邨詩稿』 - 国文学研究資料館
  8. ^ 間窓随筆』 - 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
  9. ^ 間窓随筆』 - 千葉県立図書館菜の花ライブラリー
  10. ^ 医談雑記 - 日本古典籍総合目録データベース
  11. ^ 己山遺稿 - 日本古典籍総合目録データベース
  12. ^ 梧窓随筆 - 日本古典籍総合目録データベース
  13. ^ a b c d 菊池 1918, p. 24ウ.
  14. ^ 貴志 1934, p. 32.

参考文献

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